2012年 01月 26日
フォロアーシップとリーダシップ |
1 月21 日に放映されたNHK スペシャル 「生み出せ!"危機の時代"のリーダー」 に出演していた田坂広志氏が次のようなことを述べている。
「強いリーダーという言葉には、落し穴があることに気がつく必要がある。それは、我々の心の中に潜む依存心。自分以外の誰かが、この国を、この社会を変えてくれる、という英雄待望の心理。我々は、その依存心を捨て、この国を、この社会を変えるのは、我々一人ひとりに他ならない、という自立の意識へと成熟していかなければならないのではないか。」
田坂氏はそこで 「フォロアーシップ」 という言葉を使っていた。フォロアーシップというのは私にとっては今なお永遠の課題であり、この田坂氏の言葉には非常に深い共感を覚えた。
フォロアーシップについて、私が、20 数年前に書いた随想をここに掲載してみたいと思う。20 数年前の主任時代の若い私がいだいた疑問は、今日に至るまで未だに未解決の問題として、私の心の中にずっと残り続けているからである。
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<掲示板>1998-6-12
以下は、私が10年前の課長になる前に書いた随想です。多少の字句は直しましたが、内容は変えないでそのまま載せました。10年前の話なので、どんなものかとは思いましたが、何かの参考になれば幸いです。
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<フォロアーシップとリーダシップ> 1988-9-7
数年前、米国で留学生活をしていた頃のことです。慣れない環境にいると夫婦ゲンカが多くなるとよく言われますが、わが家でも例に漏れずささいなことでよくもめごとを起こしていました。その中で、何となく心にひっかかって今でも時々思い出す一件があります。
米国では、オープンとはいえ、あらたまった席になると西欧流のレデイファーストの習慣がしっかり根付いています。若い男性のスマートなエスコートぶりを見ているうちに、家内が「少しはアメリカの男性を見習ってほしい。」と私に注文をつけ出しました。なるほど家内の言い分も分からぬ訳ではありませんが、私にも言い分があります。せっかくドアを開いてもモタモタして入って行かない、玄関では後ろにいるのでコートに手のかけようもない、テーブルではすぐ末席に座りたがる。私からするとことごとくタイミングが合わずやろうと思ってもできないわけです。「グズグズしているお前の方が悪い。」と反論するところとなり夫婦ゲンカの第一号となってしまいました。
なぜこの一件だけが、妙に記憶に残っているのかよく分かりません。ただし最近は、妻は私にリーダシップを要求し、私は妻にフォロアーシップを求めていたのだなということに気がつくようになりました。そして、慣れない環境の中で、双方が期待されるリーダシップもフォロアーシップもとれず、そのフラストレーションからお互いを非難し合っていたのではないかと思うようになりました。
こう考えて見ると、帰国後は夫婦の問題は解消したにもかかわらず、この件が妙に心に残っているのは、そこに含まれている本質的な問題に、私自身が別の局面で常に対面し続けていたからに違いありません。
人間が2人以上で活動を始めると、そこにはすでに組織というものが形成されると思います。ある組織が今まで蓄積してきた経験が全く生かせない状態に置かれた時、そこに内在していた問題点は大きく拡大されて現れてくるようです。
うまくいかないと言うとき、そこには多かれ少なかれ、必ずリーダシップとフォロアーシップのすれ違いが発生しているのではないでしょうか。
これは、日常体験からも、組織論からもよく認識されているところかもしれません。ただ、私が疑問に思うのは、このような時、真っ先にリーダシップが論じられるのに比べ、フォロアーシップのほうは驚くほど軽く扱われるのは何故なのだろうかということです。先の夫婦ゲンカの例を見てみると、リーダシップとフォロアーシップの問題は、双方が同じレベルの自立心と責任感覚を持ってこそ、はじめてスタート地点に立てるものと思われます。リーダの役割を期待された夫のみが一方的に非難されるのは、どこかおかしいと考えるほうが自然な感じ方なのではないでしょうか。
組織においてある不都合が起ったとき、責任者は上からも周囲からもリーダシップの欠如を非難されます。さらには、責任分担をすべき下位のものからも、一方的にリーダシップの無さを攻撃されます。このような状況は、組織を形成する全員にとって大きな弊害をもたらすのではないでしょうか。
第一に、リーダは、自分の責任外のことまで背負わされ、自信を喪失し成長が阻害されてしまいます。
第二に、相応の責任を分担する機会を失った下位のものは、いつまでたっても自立できず、攻撃したリーダの席に自分がつくことに恐怖感を持ち続けます。
第三に、苦難に満ちたリーダの姿を目にした若い人々は、階層組織そのものに強い不信感と将来への絶望感をいだくようになります。
世の中には山のようにリーダシップ論があるようですが、誰もこの問いには答えてくれません。あるのは公式のような教条的リーダ責任論と、きわめて経験的な人間関係論の披露のみばかりです。もう少しフォロアー責任を問う議論があってもよいのではないかという気がしてなりません。
自分のフォロアーシップが、どの程度組織に対して影響力を持っているかということを正確に自分で測定することは非常に難しいことのようです。特に、その重要性がせっぱつまったものとならない環境(例えば研究所など)においては、成員が自己のフォロアーシップの影響力を過小評価しすぎてしまう傾向が強いようです。その結果、自分の持つ影響力( Power )に見合った責任感覚が大幅に欠落してしまうということが往々にして発生してしまうのではないでしょうか。
これを、リーダの責任だと言って片づけてしまうと、問題は永久に解決しないのではないのだろうかというのが私の疑問です。その理由は「適正なるフォロアーシップの育っていない環境からは理想的なリーダシップが生まれてくる可能性は極めて低い。」と私は思うからです。(すぐれたリーダシップはある日突然サンタクロースのプレゼントのように空から降ってくると思っている人が多いのは、私には不思議でなりません。)
では、一体我々はどうしたらよいのか。この答えは未熟な私にはよく分かりませんが、ただ、少なくとも皆が「自分が他人あるいは組織に及ぼしている影響力を正確に認識する」ことができるようになれたとしたら、きっと我々は問題解決の入り口に立てるのではないかという気がしております。
本文は日々悩める中間管理職の立場から、リーダシップのみではなくフォロアーシップの問題がもっと各層の方々に議論され、皆さんの関心を集めることを期待しながら書かせていただきました。フォロアーシップの問題を突き詰めていくと、その先にごく自然に本当のリーダシップ論が見えてくるのではないのかというのが、サンタクロースの存在を信じない私の仮説と期待であります。
以上 (1988-9-7)
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<後記>当時、この意見を他の人に話したところ、それはリーダの責任だと一蹴されてしまいました。フォロアーシップとか補佐という言葉には、何故か強い抵抗感と違和感を感ずる人が世の中にはとても多いようです。どうしてそうなってしまうのだろうか?というのが、今もずっと抱き続けている私の疑問と大きな関心事であります。 (1998-6-12)
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「強いリーダーという言葉には、落し穴があることに気がつく必要がある。それは、我々の心の中に潜む依存心。自分以外の誰かが、この国を、この社会を変えてくれる、という英雄待望の心理。我々は、その依存心を捨て、この国を、この社会を変えるのは、我々一人ひとりに他ならない、という自立の意識へと成熟していかなければならないのではないか。」
田坂氏はそこで 「フォロアーシップ」 という言葉を使っていた。フォロアーシップというのは私にとっては今なお永遠の課題であり、この田坂氏の言葉には非常に深い共感を覚えた。
フォロアーシップについて、私が、20 数年前に書いた随想をここに掲載してみたいと思う。20 数年前の主任時代の若い私がいだいた疑問は、今日に至るまで未だに未解決の問題として、私の心の中にずっと残り続けているからである。
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<掲示板>1998-6-12
以下は、私が10年前の課長になる前に書いた随想です。多少の字句は直しましたが、内容は変えないでそのまま載せました。10年前の話なので、どんなものかとは思いましたが、何かの参考になれば幸いです。
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<フォロアーシップとリーダシップ> 1988-9-7
数年前、米国で留学生活をしていた頃のことです。慣れない環境にいると夫婦ゲンカが多くなるとよく言われますが、わが家でも例に漏れずささいなことでよくもめごとを起こしていました。その中で、何となく心にひっかかって今でも時々思い出す一件があります。
米国では、オープンとはいえ、あらたまった席になると西欧流のレデイファーストの習慣がしっかり根付いています。若い男性のスマートなエスコートぶりを見ているうちに、家内が「少しはアメリカの男性を見習ってほしい。」と私に注文をつけ出しました。なるほど家内の言い分も分からぬ訳ではありませんが、私にも言い分があります。せっかくドアを開いてもモタモタして入って行かない、玄関では後ろにいるのでコートに手のかけようもない、テーブルではすぐ末席に座りたがる。私からするとことごとくタイミングが合わずやろうと思ってもできないわけです。「グズグズしているお前の方が悪い。」と反論するところとなり夫婦ゲンカの第一号となってしまいました。
なぜこの一件だけが、妙に記憶に残っているのかよく分かりません。ただし最近は、妻は私にリーダシップを要求し、私は妻にフォロアーシップを求めていたのだなということに気がつくようになりました。そして、慣れない環境の中で、双方が期待されるリーダシップもフォロアーシップもとれず、そのフラストレーションからお互いを非難し合っていたのではないかと思うようになりました。
こう考えて見ると、帰国後は夫婦の問題は解消したにもかかわらず、この件が妙に心に残っているのは、そこに含まれている本質的な問題に、私自身が別の局面で常に対面し続けていたからに違いありません。
人間が2人以上で活動を始めると、そこにはすでに組織というものが形成されると思います。ある組織が今まで蓄積してきた経験が全く生かせない状態に置かれた時、そこに内在していた問題点は大きく拡大されて現れてくるようです。
うまくいかないと言うとき、そこには多かれ少なかれ、必ずリーダシップとフォロアーシップのすれ違いが発生しているのではないでしょうか。
これは、日常体験からも、組織論からもよく認識されているところかもしれません。ただ、私が疑問に思うのは、このような時、真っ先にリーダシップが論じられるのに比べ、フォロアーシップのほうは驚くほど軽く扱われるのは何故なのだろうかということです。先の夫婦ゲンカの例を見てみると、リーダシップとフォロアーシップの問題は、双方が同じレベルの自立心と責任感覚を持ってこそ、はじめてスタート地点に立てるものと思われます。リーダの役割を期待された夫のみが一方的に非難されるのは、どこかおかしいと考えるほうが自然な感じ方なのではないでしょうか。
組織においてある不都合が起ったとき、責任者は上からも周囲からもリーダシップの欠如を非難されます。さらには、責任分担をすべき下位のものからも、一方的にリーダシップの無さを攻撃されます。このような状況は、組織を形成する全員にとって大きな弊害をもたらすのではないでしょうか。
第一に、リーダは、自分の責任外のことまで背負わされ、自信を喪失し成長が阻害されてしまいます。
第二に、相応の責任を分担する機会を失った下位のものは、いつまでたっても自立できず、攻撃したリーダの席に自分がつくことに恐怖感を持ち続けます。
第三に、苦難に満ちたリーダの姿を目にした若い人々は、階層組織そのものに強い不信感と将来への絶望感をいだくようになります。
世の中には山のようにリーダシップ論があるようですが、誰もこの問いには答えてくれません。あるのは公式のような教条的リーダ責任論と、きわめて経験的な人間関係論の披露のみばかりです。もう少しフォロアー責任を問う議論があってもよいのではないかという気がしてなりません。
自分のフォロアーシップが、どの程度組織に対して影響力を持っているかということを正確に自分で測定することは非常に難しいことのようです。特に、その重要性がせっぱつまったものとならない環境(例えば研究所など)においては、成員が自己のフォロアーシップの影響力を過小評価しすぎてしまう傾向が強いようです。その結果、自分の持つ影響力( Power )に見合った責任感覚が大幅に欠落してしまうということが往々にして発生してしまうのではないでしょうか。
これを、リーダの責任だと言って片づけてしまうと、問題は永久に解決しないのではないのだろうかというのが私の疑問です。その理由は「適正なるフォロアーシップの育っていない環境からは理想的なリーダシップが生まれてくる可能性は極めて低い。」と私は思うからです。(すぐれたリーダシップはある日突然サンタクロースのプレゼントのように空から降ってくると思っている人が多いのは、私には不思議でなりません。)
では、一体我々はどうしたらよいのか。この答えは未熟な私にはよく分かりませんが、ただ、少なくとも皆が「自分が他人あるいは組織に及ぼしている影響力を正確に認識する」ことができるようになれたとしたら、きっと我々は問題解決の入り口に立てるのではないかという気がしております。
本文は日々悩める中間管理職の立場から、リーダシップのみではなくフォロアーシップの問題がもっと各層の方々に議論され、皆さんの関心を集めることを期待しながら書かせていただきました。フォロアーシップの問題を突き詰めていくと、その先にごく自然に本当のリーダシップ論が見えてくるのではないのかというのが、サンタクロースの存在を信じない私の仮説と期待であります。
以上 (1988-9-7)
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<後記>当時、この意見を他の人に話したところ、それはリーダの責任だと一蹴されてしまいました。フォロアーシップとか補佐という言葉には、何故か強い抵抗感と違和感を感ずる人が世の中にはとても多いようです。どうしてそうなってしまうのだろうか?というのが、今もずっと抱き続けている私の疑問と大きな関心事であります。 (1998-6-12)
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by sakuraimac
| 2012-01-26 16:58
| 仕事
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Comments(2)
Commented
by
のなか
at 2012-02-08 23:32
x
フォロアーシップという言葉自体を初めて知りました。なるほど、組織に属する全員が「自分が及ぼす影響を正確に認識することで問題解決の入り口に立てる」というのは、納得です。と同時に、先生は昔からずっと、組織に属する全員が各自の力を最大限に発揮するためにはどうするべきか、細やかに熱意をもって心配りされてきたのだと感服しました。
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by
sakuraimac at 2012-02-09 00:09
のなかさん、コメントありがとうございます。
今の世の中、マスコミを含めて、自分は全く責任のない立場から、ただただリーダーを無意味に批判する人が多すぎます。かつて、若干43歳で米国大統領になったJ.F.ケネディは 「国家が何をしてくれるのか期待してはいけない。自分が国家に何をなすことができるかを考えてほしい。」 と国民に語りかけました。その高邁なる精神は今の日本には全くありません。私の20 数年前の疑問は、まさにそのまま現在に通用する強い疑問として私の心の中に残り続けています。
今の世の中、マスコミを含めて、自分は全く責任のない立場から、ただただリーダーを無意味に批判する人が多すぎます。かつて、若干43歳で米国大統領になったJ.F.ケネディは 「国家が何をしてくれるのか期待してはいけない。自分が国家に何をなすことができるかを考えてほしい。」 と国民に語りかけました。その高邁なる精神は今の日本には全くありません。私の20 数年前の疑問は、まさにそのまま現在に通用する強い疑問として私の心の中に残り続けています。