2012年 09月 09日
大人になる |
劇作家の山崎正和氏が次のようなことを述べている。「生まれながらの特性に固執し、帰属すべき世界をひとつしか持たず、頑固に自分であり続けようとするのは、個人として成熟する前の幼児の特性である。」
これを読んだ当時は、中間管理職として言うことを聞かない部下の扱いに苦労していた時だったので、「子供みたいにダダをこねずに少しは大人になってくれよ。」と、内心つぶやきながら、山崎氏の言葉には大いに共感した覚えがある。
人間は何かを得ると、かわりに何かを失う。大人になることによって失うものは、若さだと理解している人も多いようだ。しかしながら、若さと幼児性というのは明らかに異なるものである。大人になるとそれと引き換えに若さを失うというのは、誤解であり、大人になって失うものは若さではなく幼児性だと思う。
幼児性とは山崎氏の言葉で表現されるものであるとするなら、若さとは何か?という問いには、有名なサミエル・ウルマンの 「青春の詩」 が、最も的確な答を与えてくれているような気がする。
「青春の詩」 については、語り尽くされているので、ここでは触れないが、山崎氏の言う幼児性については、それは本当に否定されるべきものなのか、実は心の隅でずっと疑問に思ってきた。
大企業でのサラリーマン生活の長かった私には、その疑問の解答は中々見つけることはできなかった。しかし、最近は、「頑固に自分であり続けようとする」 という基本姿勢は、個人で何か本当に優れた仕事をしようとする場合、必要なことなのではないかと思い至るようになった。
例えば芸術家などはその代表例であり、世界的指揮者の小澤征爾とか美術家の岡本太郎などは、徹底的に頑固な人間であったと思う。芸術家が回りに妥協して自分を捨てたとしたら、それは自殺行為であろう。
科学者でも作家でもスポーツ選手でも頑固に自分であり続けて一流の仕事を成し遂げ成功した例は多い。実業家でも、スティーブ・ジョブスなどは、頑固に自分であり続けて、大成功した例であろう (ただしこれは例外的できっと誰もマネはできないであろうけれど)。
大人になることで失う幼児性というものが、実は、偉大なる仕事を成し遂げるためのひとつの要因なのだとしたら、「大人になる」 ということの意味合いとは、人生にとって一体何なのだろうか? これは、私にとっては未だに明解な答えを得ることのできない永遠の疑問である。
これを読んだ当時は、中間管理職として言うことを聞かない部下の扱いに苦労していた時だったので、「子供みたいにダダをこねずに少しは大人になってくれよ。」と、内心つぶやきながら、山崎氏の言葉には大いに共感した覚えがある。
人間は何かを得ると、かわりに何かを失う。大人になることによって失うものは、若さだと理解している人も多いようだ。しかしながら、若さと幼児性というのは明らかに異なるものである。大人になるとそれと引き換えに若さを失うというのは、誤解であり、大人になって失うものは若さではなく幼児性だと思う。
幼児性とは山崎氏の言葉で表現されるものであるとするなら、若さとは何か?という問いには、有名なサミエル・ウルマンの 「青春の詩」 が、最も的確な答を与えてくれているような気がする。
「青春の詩」 については、語り尽くされているので、ここでは触れないが、山崎氏の言う幼児性については、それは本当に否定されるべきものなのか、実は心の隅でずっと疑問に思ってきた。
大企業でのサラリーマン生活の長かった私には、その疑問の解答は中々見つけることはできなかった。しかし、最近は、「頑固に自分であり続けようとする」 という基本姿勢は、個人で何か本当に優れた仕事をしようとする場合、必要なことなのではないかと思い至るようになった。
例えば芸術家などはその代表例であり、世界的指揮者の小澤征爾とか美術家の岡本太郎などは、徹底的に頑固な人間であったと思う。芸術家が回りに妥協して自分を捨てたとしたら、それは自殺行為であろう。
科学者でも作家でもスポーツ選手でも頑固に自分であり続けて一流の仕事を成し遂げ成功した例は多い。実業家でも、スティーブ・ジョブスなどは、頑固に自分であり続けて、大成功した例であろう (ただしこれは例外的できっと誰もマネはできないであろうけれど)。
大人になることで失う幼児性というものが、実は、偉大なる仕事を成し遂げるためのひとつの要因なのだとしたら、「大人になる」 ということの意味合いとは、人生にとって一体何なのだろうか? これは、私にとっては未だに明解な答えを得ることのできない永遠の疑問である。
by sakuraimac
| 2012-09-09 22:06
| 人生
|
Comments(10)
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sakuraimac at 2012-09-14 13:39
大人になることを拒絶して、社会(というよりマスコミ)にバッシングされ皆に悪いイメージを持たれてしまった最近の若い有名人では、堀江貴文と沢尻エリカの名前が思い浮かびます。私は2人ともその才能を高く評価します。かわいくない態度を取るのはやめて復活しふたたびその才能を開花させてくれることを期待したい思いです。
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”大人"に対峙する言葉が"子供"だとすれば、その境界にあるのが"青春"だろうか。 子供から大人へ移行する過程は、体もホルモンバランスも精神も大きく変わる、まさにドイツ語でいう疾風怒濤の時なのだ。 変わることを恐れてはいけない。 変わることは何事であれ痛みを伴う。 痛みは肉体的痛みもあれば精神的な痛みもある。希望・失望、期待・不安、恋愛・失恋、いちどきに様々なものが青春期・思春期の男女を襲う。 心配しなくても大丈夫だ。それが動物としての人間の、大人になる通過儀礼だから。太古の頃からの習いなのだから。悩み苦しむことを恐れてはいけない。古代から人間はその時を乗り越え、立派な牡や牝になって子孫を作り、文明をきづいてきたのだ。 若人諸君! 親や先生や他人にお膳立てされ誰かに常に依存してきた子供の世界から、外の世界に一歩を踏み出す勇気さえ持てば、雛鳥が空と風を自分のものとしまた謙虚に身を委ね嵐の中でさえ自分の意志で高く低く遠くへと飛ぶことができるように、君も広い世界に飛び立てるのだ。そして、人生のさまざまな困難に挑み続けることを恐れなければやがて君の目の前の道は開けてゆくはずだ。
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sakuraimac at 2012-09-24 04:42
jayjayさん、ひさしぶりのコメントありがとうございます。
若い人への立派な教訓、ありがとうございます。青春は疾風怒濤の時代というのはそのとおりだと思います。それが強すぎて、親や社会に反抗するという形で現れる人もいますよね。自分ではどうすることできなくて。また一方では、それが大きくなっても収まらず続く人がいて、そういう人たちのことを、上記に書いてみました。そういう人たちに、大人になれよと説得しても無駄なのだなあという、これは私の経験論でもあります。そういう人々を私は芸術家タイプと呼んでます。
芸術家タイプの部下を持った上司はきついですね。
また、一方、芸術家タイプは世間から非難されることも多い。自分を抑えきれずに、バカな世間に反抗するからです。それを社会はつぶしてしまってはいけない。そこにその社会の成熟度を見るような気がします。
若い人への立派な教訓、ありがとうございます。青春は疾風怒濤の時代というのはそのとおりだと思います。それが強すぎて、親や社会に反抗するという形で現れる人もいますよね。自分ではどうすることできなくて。また一方では、それが大きくなっても収まらず続く人がいて、そういう人たちのことを、上記に書いてみました。そういう人たちに、大人になれよと説得しても無駄なのだなあという、これは私の経験論でもあります。そういう人々を私は芸術家タイプと呼んでます。
芸術家タイプの部下を持った上司はきついですね。
また、一方、芸術家タイプは世間から非難されることも多い。自分を抑えきれずに、バカな世間に反抗するからです。それを社会はつぶしてしまってはいけない。そこにその社会の成熟度を見るような気がします。
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1729akayama
at 2018-12-18 11:55
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≪…「大人になる」 ということの意味合いとは、人生にとって一体何なのだろうか?…≫
≪…「大人になる」…≫に触れた洒落たエッセイのゴミ箱からの掘り起こしを・・・
大人にナ(成)五段活用
① 【大人に成らない】 【大人に成ろう】
② 【大人に成ります】 【大人成った】
③ 【大人に成る】
④ 【大人に成るとき】
⑤ 【大人に成れば】
⑥ 【大人に成れ】
私と他者との心の対応において、六態様がある。私をAとし、観察者をBとして観察者の子供の頃(過去)の私に対する印象と齢を経てからの両者の会話を挙げみる。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成ろう】としたかい。」
A 「【大人に成ろう】としたかったが、【大人に成らない】ことにしているよ。」
①の用例は、両者の事案に対する心の意識が相違している場合である。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成ります】って言ってくれたがどうかい。」
A 「B君の言うように、その事はその通りだしその事に関して【大人成った】よ。」
②の用例は、両者の事案に対する心の意識が合致している場合である。
B 「A君は、立派な【大人に成る】と見込んでいたがどうかなぁ。」
A 「B君そらそうだ、あれからそれ相当の時間が経過しているから立派かは別にして、【大人に成る】って当たり前だよ。」
≪…「大人になる」…≫に触れた洒落たエッセイのゴミ箱からの掘り起こしを・・・
大人にナ(成)五段活用
① 【大人に成らない】 【大人に成ろう】
② 【大人に成ります】 【大人成った】
③ 【大人に成る】
④ 【大人に成るとき】
⑤ 【大人に成れば】
⑥ 【大人に成れ】
私と他者との心の対応において、六態様がある。私をAとし、観察者をBとして観察者の子供の頃(過去)の私に対する印象と齢を経てからの両者の会話を挙げみる。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成ろう】としたかい。」
A 「【大人に成ろう】としたかったが、【大人に成らない】ことにしているよ。」
①の用例は、両者の事案に対する心の意識が相違している場合である。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成ります】って言ってくれたがどうかい。」
A 「B君の言うように、その事はその通りだしその事に関して【大人成った】よ。」
②の用例は、両者の事案に対する心の意識が合致している場合である。
B 「A君は、立派な【大人に成る】と見込んでいたがどうかなぁ。」
A 「B君そらそうだ、あれからそれ相当の時間が経過しているから立派かは別にして、【大人に成る】って当たり前だよ。」
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1729akayama
at 2018-12-18 11:58
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③の用例は、両者の時間の経過に対する共通の認識を確認した場合である。
B 「A君、【大人に成るとき】は子供の頃と違って人それぞれの心情の襞が違って現れるが一番の襞は何かね。」
A 「B君、一番の襞は万人に共通する心だよ。」
④の用例は、人それぞれの環境等による人間形成の結果の問いの場合である。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成れば】分かってくれると思っていたがどうかね。」
A 「【大人に成れば】って言ったって、私の心情の一番の襞で理解すると、【大人に成れば】って言われても難しいよ。」
⑤の用例は、人それぞれの心情の襞で照らし合わせると相違している場合である。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成れ】と言ったがどうかね。」
A 「【大人に成れ】と言われそうかと思ったが、心情の襞で照らし合わせると相違しているよ。」
⑥の用例は、人それぞれの心情の襞では、両者同じ心情を共有できない場合である。
万人に共通する心(心情の襞)とは、これをメタ数学として【身体化された心】から『大人にナ』を見てみる。
フランシスコ・ヴァレラ+エヴァン・トンプソン+エレノア・ロッシュ著田中靖夫訳の【身体化された心仏教思想からのエナクティブ・アプローチ】にマルティン・ハイデガーの「存在の問い」の【惑星思考】がある。
B 「A君、【大人に成るとき】は子供の頃と違って人それぞれの心情の襞が違って現れるが一番の襞は何かね。」
A 「B君、一番の襞は万人に共通する心だよ。」
④の用例は、人それぞれの環境等による人間形成の結果の問いの場合である。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成れば】分かってくれると思っていたがどうかね。」
A 「【大人に成れば】って言ったって、私の心情の一番の襞で理解すると、【大人に成れば】って言われても難しいよ。」
⑤の用例は、人それぞれの心情の襞で照らし合わせると相違している場合である。
B 「その事(ある事案)について、A君その事について【大人に成れ】と言ったがどうかね。」
A 「【大人に成れ】と言われそうかと思ったが、心情の襞で照らし合わせると相違しているよ。」
⑥の用例は、人それぞれの心情の襞では、両者同じ心情を共有できない場合である。
万人に共通する心(心情の襞)とは、これをメタ数学として【身体化された心】から『大人にナ』を見てみる。
フランシスコ・ヴァレラ+エヴァン・トンプソン+エレノア・ロッシュ著田中靖夫訳の【身体化された心仏教思想からのエナクティブ・アプローチ】にマルティン・ハイデガーの「存在の問い」の【惑星思考】がある。
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1729akayama
at 2018-12-18 12:00
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水無田気流さんが、ハイデガーの「先駆的決意性」で死生観を西欧思想は肉食系死生観、東洋思想は草食系死生観と述べておられる。
京都学派の思想に傾注する佐伯啓思先生もコラム「西洋と異なる思想 今こそ」で「日本で唯一の哲学者」と称される西田幾多郎は、西洋の論理を【有の論理】日本の論理を【無の論理】と呼んだりもしたと記している。同じ土壌の中で西谷啓冶は、ハイデガーの「存在の問い」の【惑星思考】の呼びかけに精通した。そのサワリを記すと、「・・・主体は客体化される主体と主体化される客体のいずれにもなる。」とある。
『大人にナ』のA君とB君の会話におけるA君の心情の襞をメタ数学の基底として西洋思想と東洋思想の融合としての【惑星思考】で探る。
物事をありのままに見るこれを自然主義としよう。A君がありのままに見えた事を言葉でB君に表象してみても、A君とB君の生を受けてからの環境(氏より育ち)に支配されたそれぞれの言葉の表象は違うのである。
しかし、数学の言語での表象は、万人に共通する心でなければならない。だから、『大人にナ』の事案で掲げた①⑤⑥についての内容が、数学の言語で表象されるなら解決するはずである。④については微妙(判断し難い)である。
新井紀子先生は、数式は、「宇宙人にも分かるように」と言われる。
森田真生氏は、「数学の演奏会」等精力的にライブ活動でしばしば自然数の表象を【身体化された心】で捉えようとされている。
京都学派の思想に傾注する佐伯啓思先生もコラム「西洋と異なる思想 今こそ」で「日本で唯一の哲学者」と称される西田幾多郎は、西洋の論理を【有の論理】日本の論理を【無の論理】と呼んだりもしたと記している。同じ土壌の中で西谷啓冶は、ハイデガーの「存在の問い」の【惑星思考】の呼びかけに精通した。そのサワリを記すと、「・・・主体は客体化される主体と主体化される客体のいずれにもなる。」とある。
『大人にナ』のA君とB君の会話におけるA君の心情の襞をメタ数学の基底として西洋思想と東洋思想の融合としての【惑星思考】で探る。
物事をありのままに見るこれを自然主義としよう。A君がありのままに見えた事を言葉でB君に表象してみても、A君とB君の生を受けてからの環境(氏より育ち)に支配されたそれぞれの言葉の表象は違うのである。
しかし、数学の言語での表象は、万人に共通する心でなければならない。だから、『大人にナ』の事案で掲げた①⑤⑥についての内容が、数学の言語で表象されるなら解決するはずである。④については微妙(判断し難い)である。
新井紀子先生は、数式は、「宇宙人にも分かるように」と言われる。
森田真生氏は、「数学の演奏会」等精力的にライブ活動でしばしば自然数の表象を【身体化された心】で捉えようとされている。
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1729akayama
at 2018-12-18 12:04
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人は、この自然数の一次元としての離散的な物理的集合の序数としての123・・・との視覚から【身体化された心】で表象の記号として認知(ラベル化)する。
このラベル化された数字を【身体化された心】の万人に共通する価値の順序としての表象に用いるとする。これを一次元の数とする。
二次元の数として物理量の面積を数で表象できる。
三次元の数の価値として、一次元の数と二次元の数の乗積として表象できる。
そこで、有限個の一次元の集合の表象された自然数の人の思考した大小(価値)比較の一次元の要素の組み合わせと三次元の要素の組み合わせの思考結果としての三次元の大小(価値)比較を数学は、『量化素子』で真理を明示しうるのだ。これは、二次元の数の減少を【身体化された心】として捉える事だったのだ。
そのエナクティブ・アプローチからの創発は、一・二・三次元の数のそれぞれの次元の数の組み合わせが『離散的有限個の有理数の多変数創発関数論』を醸成していたのだ。
チョット昔の風景を再現する。レオポルド・インフェルト著市井三郎訳の「ガロアの生涯神々の愛でし人」の一八三一年一月一三日の一九歳のエヴァリスト・ガロアの講義の聞き手(A)の呟きを記す。
「・・・数学は、われわれの感覚印象の世界に訴えることのない唯一のものであります。」
数学は、惑星思考の【身体化された心】から探れるのじゃないの?
「数学の研究が、知識というよりは真理の探究を目指している・・・」
数学は、【身体化された心】のオエセル(光明)かも知れない?
「・・・一挙にすべての数学的真理を認識しうる人がいるとすれば、その人はわずかの原理と均一な方法とから、それらのあらゆる真理を厳密に機械的に演繹できるでしょう。」
このラベル化された数字を【身体化された心】の万人に共通する価値の順序としての表象に用いるとする。これを一次元の数とする。
二次元の数として物理量の面積を数で表象できる。
三次元の数の価値として、一次元の数と二次元の数の乗積として表象できる。
そこで、有限個の一次元の集合の表象された自然数の人の思考した大小(価値)比較の一次元の要素の組み合わせと三次元の要素の組み合わせの思考結果としての三次元の大小(価値)比較を数学は、『量化素子』で真理を明示しうるのだ。これは、二次元の数の減少を【身体化された心】として捉える事だったのだ。
そのエナクティブ・アプローチからの創発は、一・二・三次元の数のそれぞれの次元の数の組み合わせが『離散的有限個の有理数の多変数創発関数論』を醸成していたのだ。
チョット昔の風景を再現する。レオポルド・インフェルト著市井三郎訳の「ガロアの生涯神々の愛でし人」の一八三一年一月一三日の一九歳のエヴァリスト・ガロアの講義の聞き手(A)の呟きを記す。
「・・・数学は、われわれの感覚印象の世界に訴えることのない唯一のものであります。」
数学は、惑星思考の【身体化された心】から探れるのじゃないの?
「数学の研究が、知識というよりは真理の探究を目指している・・・」
数学は、【身体化された心】のオエセル(光明)かも知れない?
「・・・一挙にすべての数学的真理を認識しうる人がいるとすれば、その人はわずかの原理と均一な方法とから、それらのあらゆる真理を厳密に機械的に演繹できるでしょう。」
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1729akayama
at 2018-12-18 12:07
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数学は、【身体化された心】のオエセル(光明)から『離散的有限個の有理数の多変数創発関数論』から群を知らしめているのではないか?
鷲田清一先生の「折々のことば」の拾いに、マックス・ピカートの言葉の
「非連続の世界においては、精神は存在しえない」
を眼にし、つくづく数学は、ミステリーだなー・・・と。
何故なら、非連続の世界を【身体化された心】で捉えると連続の世界が顕現してくる、これ即ち精神の世界への突入ではないか。数学は、精神に生きる生き物だと。
また、数の世界では、一次元の数と二次元の数の解析接続を【身体化された心】からの【惑星思考】により正比例と反比例を量化すると・・・。このことから創発関数論の孵化係数は、一次元の数と二次元の数をアーベル群化する幾何学的創発係数とおぼしき【e‐2】を確かめることができる。
マックス・ピカートのこのソースは、「われわれ自身のなかのヒトラー」で「連関性を欠いた人間」に連続性がない。なるほど ゝ 健全な「精神は存在しえない」って言うことなのですね。
離散的有限個の有理数の多変数創発関数論に出くわしたことは
いろはかるたに
「犬も歩けば棒に当る」
人生こんなもんっていう コッチャ ヽ ・・・と。
しかし、いろは歌に込められた呪文は裁かれねばならない。
合掌
鷲田清一先生の「折々のことば」の拾いに、マックス・ピカートの言葉の
「非連続の世界においては、精神は存在しえない」
を眼にし、つくづく数学は、ミステリーだなー・・・と。
何故なら、非連続の世界を【身体化された心】で捉えると連続の世界が顕現してくる、これ即ち精神の世界への突入ではないか。数学は、精神に生きる生き物だと。
また、数の世界では、一次元の数と二次元の数の解析接続を【身体化された心】からの【惑星思考】により正比例と反比例を量化すると・・・。このことから創発関数論の孵化係数は、一次元の数と二次元の数をアーベル群化する幾何学的創発係数とおぼしき【e‐2】を確かめることができる。
マックス・ピカートのこのソースは、「われわれ自身のなかのヒトラー」で「連関性を欠いた人間」に連続性がない。なるほど ゝ 健全な「精神は存在しえない」って言うことなのですね。
離散的有限個の有理数の多変数創発関数論に出くわしたことは
いろはかるたに
「犬も歩けば棒に当る」
人生こんなもんっていう コッチャ ヽ ・・・と。
しかし、いろは歌に込められた呪文は裁かれねばならない。
合掌
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sakuraimac at 2018-12-21 12:16
1729akayama さん、
たくさんのコメントありがとうございます。最近体調を崩してブログからは遠ざかっていたので、コメントいただいたことに気が付きませんでした。
難しいお話なので、後にゆっくり読ませていただきます。
ところで、色々なことを数学的に表すためには「大人」の定義が必要ですよね。
たくさんのコメントありがとうございます。最近体調を崩してブログからは遠ざかっていたので、コメントいただいたことに気が付きませんでした。
難しいお話なので、後にゆっくり読ませていただきます。
ところで、色々なことを数学的に表すためには「大人」の定義が必要ですよね。
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1729akayama
at 2018-12-24 03:04
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「大学教員のつぶやき」さんに訪問できたことを感謝すると共に健康でありたいものです。
≪…「大人」の定義が必要ですよね。≫
「勝手に」と言っても…
「勝手にしやがれ」てなぁー もんかもしれませんが…
≪「大人」の定義≫を【数そのモノ】の[構造]と[人の精神構造(状況)]とを双対性で迫ると。
[連続性](和み)と[離散性](諍い)を両極とするバロメターの針が何処にあるかということかもしれない。
生まれてこの方、[連続性]の極から始まり[離散性]への極に向かうと観る事に生る。
[理性]は・針を持たないバロメター(【数そのモノ】)である。
人は、[事象]ごとに針の位置が違う事、そのものが「大人」との≪定義≫に生るのかな。
≪…「大人」の定義が必要ですよね。≫
「勝手に」と言っても…
「勝手にしやがれ」てなぁー もんかもしれませんが…
≪「大人」の定義≫を【数そのモノ】の[構造]と[人の精神構造(状況)]とを双対性で迫ると。
[連続性](和み)と[離散性](諍い)を両極とするバロメターの針が何処にあるかということかもしれない。
生まれてこの方、[連続性]の極から始まり[離散性]への極に向かうと観る事に生る。
[理性]は・針を持たないバロメター(【数そのモノ】)である。
人は、[事象]ごとに針の位置が違う事、そのものが「大人」との≪定義≫に生るのかな。