2013年 03月 28日
石原莞爾 |
高校時代に一番苦手な科目は日本史であった。暗記が不得手で興味も沸かず勉強も全くしないので、成績はいつも赤点すれすれ、日本史の先生には申し訳なく思っていた。そんな私であったが、先生が及び腰になる近代史(特に太平洋戦争)のところだけは、何故か、妙に興味をそそられて不思議と今でもよく記憶に残っている。
太平洋戦争前後の3大悪人というと、大杉栄を殺した甘粕正彦、張作霖爆殺を陰謀した河本大作、そして満州事変を起し日本を戦争に引き込んだ石原莞爾の3人だと、教科書を眺めながら自分で勝手に決め込んでいた。(東条英機は何故か悪人だとは思わなかった。)
ところが、社会人になって色々本を読むようになってからは、この高校時代の印象は、事実とは全く異なっていることを知った。甘粕正彦と河本大作については、また別の機会にゆずるとして、最近、東京裁判での記録の本が発行された石原莞爾について、今回は、ちょっと感想を記してみたい。
(このブログにはそぐわない堅い話題で、しかも専門外の話で恐縮ではあるが、高校生時代からの懸案事項でもあったのでちょっとばかりお許しを・・・)
石原莞爾は、当時の日本の指導者や軍人の中でも、卓越したビジョンと行動力を持った天才的人物であったと言われている。ところが、一般には、その評価が大きく分かれる人物でもあるようだ。分かれる理由は満州事変への歴史的評価が一番の原因である。歴史評価は門外漢の私には何とも言えないが、石原莞爾の人間像は実に魅力的であり、また、その深い洞察力と鋭い先見性は、当時の日本にあっては特筆に値するのではないかと感ずる。
彼の思想と行動を記す前に、当時の日本を取り巻く国際環境(米国、中国、ソ連)について少し整理をしておく。
①米国: 西への陸路フロンティアがカリフォルニア州で終わり、さらにハワイ、フィリピンなど太平洋へ乗り出していた。その先には広大な中国大陸があり、米国の大きな関心事は中国大陸への進出であった。その前に立ちはだかっていたのが軍事大国日本である。当時の米国の仮想敵国の地図の中で、日本はオレンジ色がつけられており、対日戦略はオレンジ計画と呼ばれていた。(強力な海軍を持ち、言うことを聞かない軍事大国日本は、現代の例で言うなら、イラク、イラン、北朝鮮といった感じで、米国軍部にとっては、目障りこの上なく、機会があればいずれはたたかねばならない存在であったのだろう。)
②中国: 蒋介石率いる国民党、毛沢東率いる共産党、それに地方の軍閥(張学良)が入り乱れていた。日本と戦う理由は特にはなく、統率しきれてなかった満州国の独立も、実際にはそれほど強い抵抗感はなかったようである。蒋介石は獅子身中の虫、共産党を撃退するまでは日本と争いを起こす気は全くなかった。しかしながら、日本が日中戦争を始めてしまったばかりに、国共合作をして共産党と対日戦線を組まざるを得ないはめになってしまった。(結果的に、日本の中国侵攻で一番得をしたのは、国民党による殲滅をまぬがれた毛沢東の共産党であったと言える。)
③ソ連: 日露戦争の遺恨があり、「満州は取り戻さねばならない。」と小学校の教科書にも書かれていたそうである。ただし、当時は欧州および国内事情から、当面は極東に進出する状況ではなかった。(ただし、コミンテルンを通じて中国での共産主義の活動には大いに援助をしていた。)
以上が、当時の国際情勢をおおまかにまとめてみたものである。
このような状況の下で、石原莞爾は、国家10年のグランド・デザインを提示し、それを皆に説いた。すなわち、
「最終の敵は米国である。米国と対峙するには国力の差は大きすぎるので、無秩序状態で放置されている満州を日本の統治によって繁栄させて、さらには中国と仲良くし、日本、満州、中国にて同盟(東亜連盟)を作り、国力を増強する。米国と対峙出来る国力を築き上げるまでの10年間は米国とは戦うべきではない。」
この基本思想のもとに、満州事変を決行した。戦意のない張学良の22万の軍隊は、1万数千人の関東軍の前に敗れ去る。この快挙に世界は驚く。しかもそこには露骨な列強の干渉も全くなかった。もし、独立満州国の理念を明確に世界に説明し、承認を勝ち得たとしたら、石原莞爾は歴史に名をきざむ名将軍になったかもしれないと言う人もいる。(実際にリットン調査団の報告のもとに国際連盟で否認された満州国は、それでも23ヶ国から承認されていたのである。)
石原莞爾の認識からすると、同盟すべき中国と戦うことは、日本の国力を疲弊させ東亜同盟を破壊する絶対に避けるべきことであった。当然、石原は中国と戦いを始めることには大反対をした。しかしながら、彼のビジョンを理解しない陸軍の将校たちは、満州を攻めることと、中国本土を攻めることの差異が分からずに、結局日本は全く意味のない泥沼の日中戦争にはまり込んでいく。
一方、海軍も、米国の締め付けに音を上げて、早すぎる対米開戦に向けて暴走していく。「勝てない戦さに絶望感から突入する国があるだろうか。」と米国を驚かせた真珠湾奇襲を行い、結果的には厭戦気分の米国民の戦意を一挙に沸騰させてしまう。(この辺の経緯は、山本五十六の責任もずいぶんとあるのではないかと思える。)
その後の、海軍の戦闘の仕方についても、石原莞爾は正しい提言をしている。1942年に、「海軍はガダルカナルを撤退し、西はビルマ、シンガポール、フィリピン、サイパンまで退いて守る。サイパンを要塞化することによって、米国から日本を守ることができる。」と提言している。その意見には陸軍も海軍も全く耳を貸さなかった。戦力比を自覚して負けない防御線を設定するという軍事思想が、当時の日本軍には全くなかった訳である。(この太平洋戦線での戦略も、山本長官の責任が大きいような気がするのだが、何故か山本長官を正面切って批判する論評が少ないのは不思議である。)
1946年の極東軍事裁判終了後の外国人記者団の会見では、石原莞爾は「私が戦争指導を行っていたら、サイパンの防御に全力を期し、レイテを守り、持久戦に持ち込み断じて負けない。サイパンさえ落とさなければ、日本は中国に謝罪して支那事変を解決し東亜一丸となることができた。サイパンが落ちた時点で蒋介石は完全に日本を見限った。」と語っている。(蒋介石との日中和平のいきさつについては下記を参照ください。)
http://sakuraimac.exblog.jp/20496270/
この辺の経緯から、「石原が参謀長だったら日本は敗けていなかったかもしれない。」という声さえ出て来るのであるが、それも妄想とばかりは言えないような気もしてくる。石原莞爾の、余人の追随を許さない卓越したビジョンと見識は、今から見ると感歎せざるを得ない。
このような異能の人材を活かせなかった日本は、やはり負けるべくして負けた(それも必要以上の情けない負け方で)のだなあと、改めて感じざるを得ない思いがする。
なお、満州事変の歴史的意味であるが、それが無かったら太平洋戦争は回避できただろうという立場に立てば、石原莞爾を無条件に評価することはできないであろう。しかし、その判断を保留したならば、石原莞爾の才能は、当時の日本では得難い素晴らしいものであったと素直に認めざるを得ないと思う。
<補足>
1.東条英機との確執: 東京裁判のときに検事から東条との意見の対立について聞かれたときに、「東条には思想も意見もない。意見のない者との間で意見の対立などあるわけがない。」と語ったという。東条英機は、几帳面で、官僚、組織人としては優れた人物であったようだ。しかしながら、石原のようなビジョン、戦略眼は全く無かった。そのため、石原は徹底して東条を馬鹿にして東條派と対立し、軍部内で活躍する場を自ら失っていく。石原に、もう少し、組織人としての知恵と才覚があったならと惜しむ声も多いようだ。
2.重要産業5ヶ年計画: 参謀本部の作戦課長時代に、戦争遂行のための、満州を含めた国家の国防産業政策をまとめた。いったんは、これを否認した軍部であるが、結局は、これを基にして物資動員計画を作り、日中戦争と太平等戦争をまがりなりにも4年間続けることができた。なお、石原は、満州のインフラ整備と重工業育成を推進するために、企業誘致にも走り回っている。軍人としてのみではなく、国家の政策運営に大きな働きをしていた人物だった訳でもある。
3.平和主義者: 人を殺す軍人には自分は向いていないと語っている。日蓮宗に帰依し、最終戦争論では「世界人類の本当に長い間の共通のあこがれであった世界の統一、永遠の平和を達成するには、なるべく戦争などという乱暴な、残忍なことをしないで、刃ちぬらずして、そういう時代の招来されることを熱望するのであり、それが、われわれの日夜の祈りであります。」と戦時中に述べている。彼は決して軍国主義者ではなかったと思われる。
4.サイパン島: サイパン島は日本本土までB29爆撃機が往復で飛行できる距離にある。サイパンを押さえれば米国は日本本土の爆撃が可能となる。彼はサイパンを守れと早い時期から提言していた。東条英樹がその重要性を認識したときはすでに遅く、サイパン島の日本軍は全滅し、以降、B29による日本各地の空爆、10万人以上の死者を出した東京大空襲、そして原爆投下につながっていく。
<経歴>
1903年 陸軍幼年学校に入学、開校以来の秀才と定評があった。ナポレオンを熱心に研究した。
1907年 士官候補生として山形歩兵第三十二連隊に配属、部下からは慕われ上司からはにらまれる。当時から、その性格は顕著であったようだ。
1909年 会津若松歩兵六十五連隊に配属 韓国駐留、
1915年 陸軍大学入学、成績抜群で恩賜の軍刀を拝受する。
1919年 妻銻子と再婚、1919年 教育総監勤務
1920年 漢口中支派遣隊司令部付
1921年 陸軍大学兵学教官、その講義は絶大な人気を博す。
1923 年 ドイツ留学
1928年 関東軍作戦主任参謀
1931年 満州事変を坂垣征四郎参謀長と実行し成功させる。
1933 年 仙台第二師団連隊長、兵士の生活改善に尽力する。
1935 年 参謀本部作戦課長、重要産業五カ年年計画を立てる。
1936 年 東京警備司令部参謀兼務として2-26事件を鎮圧
1937 年 参謀本部作戦部長、日中戦争に反対する
1938 年 東条英機と対立して舞鶴要塞司令官に左遷される。
1939 年 第16師団長
1941 年 東条と対立して予備役編入
立命館大学講師を務め、各地の講演は人気を博す。
1947 年 極東軍事裁判酒田法廷に出廷
1949 年 満60歳にて死去
太平洋戦争前後の3大悪人というと、大杉栄を殺した甘粕正彦、張作霖爆殺を陰謀した河本大作、そして満州事変を起し日本を戦争に引き込んだ石原莞爾の3人だと、教科書を眺めながら自分で勝手に決め込んでいた。(東条英機は何故か悪人だとは思わなかった。)
ところが、社会人になって色々本を読むようになってからは、この高校時代の印象は、事実とは全く異なっていることを知った。甘粕正彦と河本大作については、また別の機会にゆずるとして、最近、東京裁判での記録の本が発行された石原莞爾について、今回は、ちょっと感想を記してみたい。
(このブログにはそぐわない堅い話題で、しかも専門外の話で恐縮ではあるが、高校生時代からの懸案事項でもあったのでちょっとばかりお許しを・・・)
石原莞爾は、当時の日本の指導者や軍人の中でも、卓越したビジョンと行動力を持った天才的人物であったと言われている。ところが、一般には、その評価が大きく分かれる人物でもあるようだ。分かれる理由は満州事変への歴史的評価が一番の原因である。歴史評価は門外漢の私には何とも言えないが、石原莞爾の人間像は実に魅力的であり、また、その深い洞察力と鋭い先見性は、当時の日本にあっては特筆に値するのではないかと感ずる。
彼の思想と行動を記す前に、当時の日本を取り巻く国際環境(米国、中国、ソ連)について少し整理をしておく。
①米国: 西への陸路フロンティアがカリフォルニア州で終わり、さらにハワイ、フィリピンなど太平洋へ乗り出していた。その先には広大な中国大陸があり、米国の大きな関心事は中国大陸への進出であった。その前に立ちはだかっていたのが軍事大国日本である。当時の米国の仮想敵国の地図の中で、日本はオレンジ色がつけられており、対日戦略はオレンジ計画と呼ばれていた。(強力な海軍を持ち、言うことを聞かない軍事大国日本は、現代の例で言うなら、イラク、イラン、北朝鮮といった感じで、米国軍部にとっては、目障りこの上なく、機会があればいずれはたたかねばならない存在であったのだろう。)
②中国: 蒋介石率いる国民党、毛沢東率いる共産党、それに地方の軍閥(張学良)が入り乱れていた。日本と戦う理由は特にはなく、統率しきれてなかった満州国の独立も、実際にはそれほど強い抵抗感はなかったようである。蒋介石は獅子身中の虫、共産党を撃退するまでは日本と争いを起こす気は全くなかった。しかしながら、日本が日中戦争を始めてしまったばかりに、国共合作をして共産党と対日戦線を組まざるを得ないはめになってしまった。(結果的に、日本の中国侵攻で一番得をしたのは、国民党による殲滅をまぬがれた毛沢東の共産党であったと言える。)
③ソ連: 日露戦争の遺恨があり、「満州は取り戻さねばならない。」と小学校の教科書にも書かれていたそうである。ただし、当時は欧州および国内事情から、当面は極東に進出する状況ではなかった。(ただし、コミンテルンを通じて中国での共産主義の活動には大いに援助をしていた。)
以上が、当時の国際情勢をおおまかにまとめてみたものである。
このような状況の下で、石原莞爾は、国家10年のグランド・デザインを提示し、それを皆に説いた。すなわち、
「最終の敵は米国である。米国と対峙するには国力の差は大きすぎるので、無秩序状態で放置されている満州を日本の統治によって繁栄させて、さらには中国と仲良くし、日本、満州、中国にて同盟(東亜連盟)を作り、国力を増強する。米国と対峙出来る国力を築き上げるまでの10年間は米国とは戦うべきではない。」
この基本思想のもとに、満州事変を決行した。戦意のない張学良の22万の軍隊は、1万数千人の関東軍の前に敗れ去る。この快挙に世界は驚く。しかもそこには露骨な列強の干渉も全くなかった。もし、独立満州国の理念を明確に世界に説明し、承認を勝ち得たとしたら、石原莞爾は歴史に名をきざむ名将軍になったかもしれないと言う人もいる。(実際にリットン調査団の報告のもとに国際連盟で否認された満州国は、それでも23ヶ国から承認されていたのである。)
石原莞爾の認識からすると、同盟すべき中国と戦うことは、日本の国力を疲弊させ東亜同盟を破壊する絶対に避けるべきことであった。当然、石原は中国と戦いを始めることには大反対をした。しかしながら、彼のビジョンを理解しない陸軍の将校たちは、満州を攻めることと、中国本土を攻めることの差異が分からずに、結局日本は全く意味のない泥沼の日中戦争にはまり込んでいく。
一方、海軍も、米国の締め付けに音を上げて、早すぎる対米開戦に向けて暴走していく。「勝てない戦さに絶望感から突入する国があるだろうか。」と米国を驚かせた真珠湾奇襲を行い、結果的には厭戦気分の米国民の戦意を一挙に沸騰させてしまう。(この辺の経緯は、山本五十六の責任もずいぶんとあるのではないかと思える。)
その後の、海軍の戦闘の仕方についても、石原莞爾は正しい提言をしている。1942年に、「海軍はガダルカナルを撤退し、西はビルマ、シンガポール、フィリピン、サイパンまで退いて守る。サイパンを要塞化することによって、米国から日本を守ることができる。」と提言している。その意見には陸軍も海軍も全く耳を貸さなかった。戦力比を自覚して負けない防御線を設定するという軍事思想が、当時の日本軍には全くなかった訳である。(この太平洋戦線での戦略も、山本長官の責任が大きいような気がするのだが、何故か山本長官を正面切って批判する論評が少ないのは不思議である。)
1946年の極東軍事裁判終了後の外国人記者団の会見では、石原莞爾は「私が戦争指導を行っていたら、サイパンの防御に全力を期し、レイテを守り、持久戦に持ち込み断じて負けない。サイパンさえ落とさなければ、日本は中国に謝罪して支那事変を解決し東亜一丸となることができた。サイパンが落ちた時点で蒋介石は完全に日本を見限った。」と語っている。(蒋介石との日中和平のいきさつについては下記を参照ください。)
http://sakuraimac.exblog.jp/20496270/
この辺の経緯から、「石原が参謀長だったら日本は敗けていなかったかもしれない。」という声さえ出て来るのであるが、それも妄想とばかりは言えないような気もしてくる。石原莞爾の、余人の追随を許さない卓越したビジョンと見識は、今から見ると感歎せざるを得ない。
このような異能の人材を活かせなかった日本は、やはり負けるべくして負けた(それも必要以上の情けない負け方で)のだなあと、改めて感じざるを得ない思いがする。
なお、満州事変の歴史的意味であるが、それが無かったら太平洋戦争は回避できただろうという立場に立てば、石原莞爾を無条件に評価することはできないであろう。しかし、その判断を保留したならば、石原莞爾の才能は、当時の日本では得難い素晴らしいものであったと素直に認めざるを得ないと思う。
<補足>
1.東条英機との確執: 東京裁判のときに検事から東条との意見の対立について聞かれたときに、「東条には思想も意見もない。意見のない者との間で意見の対立などあるわけがない。」と語ったという。東条英機は、几帳面で、官僚、組織人としては優れた人物であったようだ。しかしながら、石原のようなビジョン、戦略眼は全く無かった。そのため、石原は徹底して東条を馬鹿にして東條派と対立し、軍部内で活躍する場を自ら失っていく。石原に、もう少し、組織人としての知恵と才覚があったならと惜しむ声も多いようだ。
2.重要産業5ヶ年計画: 参謀本部の作戦課長時代に、戦争遂行のための、満州を含めた国家の国防産業政策をまとめた。いったんは、これを否認した軍部であるが、結局は、これを基にして物資動員計画を作り、日中戦争と太平等戦争をまがりなりにも4年間続けることができた。なお、石原は、満州のインフラ整備と重工業育成を推進するために、企業誘致にも走り回っている。軍人としてのみではなく、国家の政策運営に大きな働きをしていた人物だった訳でもある。
3.平和主義者: 人を殺す軍人には自分は向いていないと語っている。日蓮宗に帰依し、最終戦争論では「世界人類の本当に長い間の共通のあこがれであった世界の統一、永遠の平和を達成するには、なるべく戦争などという乱暴な、残忍なことをしないで、刃ちぬらずして、そういう時代の招来されることを熱望するのであり、それが、われわれの日夜の祈りであります。」と戦時中に述べている。彼は決して軍国主義者ではなかったと思われる。
4.サイパン島: サイパン島は日本本土までB29爆撃機が往復で飛行できる距離にある。サイパンを押さえれば米国は日本本土の爆撃が可能となる。彼はサイパンを守れと早い時期から提言していた。東条英樹がその重要性を認識したときはすでに遅く、サイパン島の日本軍は全滅し、以降、B29による日本各地の空爆、10万人以上の死者を出した東京大空襲、そして原爆投下につながっていく。
<経歴>
1903年 陸軍幼年学校に入学、開校以来の秀才と定評があった。ナポレオンを熱心に研究した。
1907年 士官候補生として山形歩兵第三十二連隊に配属、部下からは慕われ上司からはにらまれる。当時から、その性格は顕著であったようだ。
1909年 会津若松歩兵六十五連隊に配属 韓国駐留、
1915年 陸軍大学入学、成績抜群で恩賜の軍刀を拝受する。
1919年 妻銻子と再婚、1919年 教育総監勤務
1920年 漢口中支派遣隊司令部付
1921年 陸軍大学兵学教官、その講義は絶大な人気を博す。
1923 年 ドイツ留学
1928年 関東軍作戦主任参謀
1931年 満州事変を坂垣征四郎参謀長と実行し成功させる。
1933 年 仙台第二師団連隊長、兵士の生活改善に尽力する。
1935 年 参謀本部作戦課長、重要産業五カ年年計画を立てる。
1936 年 東京警備司令部参謀兼務として2-26事件を鎮圧
1937 年 参謀本部作戦部長、日中戦争に反対する
1938 年 東条英機と対立して舞鶴要塞司令官に左遷される。
1939 年 第16師団長
1941 年 東条と対立して予備役編入
立命館大学講師を務め、各地の講演は人気を博す。
1947 年 極東軍事裁判酒田法廷に出廷
1949 年 満60歳にて死去
by sakuraimac
| 2013-03-28 22:07
| 歴史
|
Comments(4)
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by
sakuraimac at 2014-01-04 11:28
2004/1/3の日経新聞の小澤征爾の私の履歴書の記事にあったのですが、征爾という変わった名前は、父親が、満州事変の板垣征四郎と石原莞爾の2人から一字づつ取ってつけたという話が載っていました。父親と両名は親しかったようです。
0
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by
sakuraimac at 2014-01-04 11:34
1/4の小澤征爾の私の履歴書第3回には、父親が、対中和平工作に奔走し、蒋介石から「天皇の特使として石原莞爾を出せ。」と要求されたという話が紹介されてました。石原莞爾自身の「中国に謝罪して支那事変を解決し東亜一丸となることができた。」という言葉は本当なのだろかと疑っていたのですが、思わぬところから、そういう話が実際にあったのだということを知りました。
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私も大学教員
at 2016-12-14 21:18
x
失礼とは存じますが,大学教員とのことですので,一言申し上げさせていただきます。
このブログを書くに当たり,石原莞爾の著作,特に最終戦争論に関するものをお読みになりましたか?持論を展開するのであれば,原典に当たるのは基礎の基礎です。
青空文庫:石原莞爾
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person230.html
なお,B29が実戦投入されたのは1944年だそうです(wiki)。いかな天才・石原莞爾であろうとも,「早い段階」から「これを見越」すことは不可能と考えますが,いかがお考えでしょうか。石原莞爾は技術音痴でも知られています。彼の著作を読めば,それが如実に伺われます。その点からも,やはり不可能と考えますが,いかがでしょうか。
このブログを書くに当たり,石原莞爾の著作,特に最終戦争論に関するものをお読みになりましたか?持論を展開するのであれば,原典に当たるのは基礎の基礎です。
青空文庫:石原莞爾
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person230.html
なお,B29が実戦投入されたのは1944年だそうです(wiki)。いかな天才・石原莞爾であろうとも,「早い段階」から「これを見越」すことは不可能と考えますが,いかがお考えでしょうか。石原莞爾は技術音痴でも知られています。彼の著作を読めば,それが如実に伺われます。その点からも,やはり不可能と考えますが,いかがでしょうか。
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sakuraimac at 2016-12-17 13:17
コメントどうもありがとうございます。
確かに原典にちゃんと当たっておらず勝手な推測多いのは反省です。サイパンもB29の航続距離を見越していたとは時期的にあり得ませんね。これも、サイパンを重視したことへの推測でした。
書いていて自分でも気になったことをご指摘いただきありがとうございます。よく調べてから修正いたします。
確かに原典にちゃんと当たっておらず勝手な推測多いのは反省です。サイパンもB29の航続距離を見越していたとは時期的にあり得ませんね。これも、サイパンを重視したことへの推測でした。
書いていて自分でも気になったことをご指摘いただきありがとうございます。よく調べてから修正いたします。