2013年 12月 09日
無限について |
電子工学の講義をしているとき、学生に説明しながら、いつも何か引っかっている式がある。それは、インパルスを表すデルタ関数δ(t)である。式で書くと以下のようになる。
δ(t)=0 : for t≠0、δ(t)=∞ : for t=0
∫δ(t)=1
これは、どの教科書にも書いてある式なのだが、いつも私は何か違和感を覚えながら黒板に書いている。t=0 でのみ∞の値を取るなどということは、どうにも直感的には考えにくい。t=0ではなく、微小有限幅を持ったt=-Δt~+Δtで考えるべきであり、∞はある上限を持った有限値(1/2Δ)と読み替えて私は内心理解をしている。
もう一つ、よく黒板に書く式にフーリエ変換の式がある。
F(jω)=∫f(t)exp(-jωt)dt
これは、時間積分の式であるが、積分範囲はマイナス∞からプラス∞である。これも、何かしっくりこない。時間には限りがあると考えるのが自然である。有限ではあるが、すごく大きな値と読み替えて、∞という記号は便宜的に借用しているものと私は理解している。
特に実害はないので、気持ちは悪いが∞という表現はそのまま使っている。(なお、アナログ信号をディジタル化しDFT(ディジタルフーリエ変換)まで話が進むと無限の問題は消える。従って、コンピュータの世界に入ってしまうと無限の話を引きずることはないのであるが。)
ところで、日頃自分の心のなかでくすぶっていたこの無限の問題に、たまたま明示的な形で直面したのが、先日ブログに書いたオイラーの自然数の無限和の公式の話である。
1+2+3+4+….=-1/12 という世にも不思議な公式である。
自然数の無限和が∞ではなく-1/12に収束するなど、そんな馬鹿なことがあるのだろうかと以前のブログ「オイラーの公式の謎」に書いた。そうしたら、数学の専門家らしき方が見つけてくださり、「それは無限和に対する定義の違いから発生するものなのだ。」というコメントを書き込んでくださった。
http://sakuraimac.exblog.jp/19944849
Twitterでも紹介してくれたので、その日一日で、私のこのマニアックなブログ記事へのアクセス件数がいきなり104件も発生したのでビックリしてしまった。
以来、技術者の私としては、以前から気持ちが悪くてしかたがなかった無限というものについて、少し調べて考えてみようという気になり、無限に関する数学と物理の本を読み始めた。
まだ勉強途上ではあるのだが、無限という概念は、昔から哲学・数学の分野では色々な人々が考え議論してきたようである。
ただ、物理学や工学の世界での無限と、数学の世界での無限では意味合いがどうも少し違うようだ。
物理学や工学では自然を相手にしており、手に負えないくらいの大きな量や数が多いものは、あまり深くは追求せずにとりあえず無限として表現する。しかしながら、その背後では、無限とは言いつつも、実際にはどこかで有限値となるだろうと、暗黙裏に解釈しながら無限という言葉を使っているフシがある。
ところが、数学の世界では、無限は純粋に無限である。したがって、無限に関しては、深い考察がなされ、数多くの研究者たちが、その解明に取り組んできた。また、無限の定義に関しても色々な試みが行われてきた。(前述のブログへのコメントも、無限はひとつの定義だけでは表せられないということを教えてくれたのだと思う。)
数学は物理学とは密接な関係があり、相互に大きな影響を与え合いながら発展してきたという歴史がある。物理学にとっては、数学は絶対なる信頼感のおける最高のパートナーである。物理学の上に成り立っている工学も同じである。したがって、数学に対して疑問を持つということは、我々にとっては、普通はまず有り得ないことである。
しかしながら、無限に関してだけは、ちょっと事情が違うような気がする。自然科学(ここでは物理学と工学をとりあえず考えているのだが)は、自然現象を解明するものであり、当然、完璧な論理を求める数学とは異なるものである。
あくまで、自然界に存在するものの解明が目的であり、自然界に存在しないものは、研究の対象とはならない。(人間の直観では存在は想像すらされなかったものが、数式によって予言され、後から自然界において発見されたという実例が数多くあることは事実であるとしても、やはり存在するということが大前提である。)
その観点からすると、「数学の世界で定義されるある種の無限というものは、自然界には存在せず、数学における無限の概念を、そのままそっくり自然科学に適用するのは間違いなのではないか?」という、素朴な疑問が私には湧いてくるのである。
その好例が、オイラーの無限和の公式、1+2+3+4+….=-1/12 なのではないかと思う。誤解を恐れずに言えば、この式は数学の世界の無限に関する一種の遊戯であり、自然科学にとっては、実在しない無意味なものではないか?という疑問である。
大栗博司先生が、自然科学である「超弦理論」の次元の説明に、数学の無限に対するある種の定義から生まれてきた公式、1+2+3+4+….=-1/12 をそのまま使うのは、不適切なことではないのかと、誠に恐れ多いことながら浅学シロウトから問題提起をしてみたい思いがしている。
δ(t)=0 : for t≠0、δ(t)=∞ : for t=0
∫δ(t)=1
これは、どの教科書にも書いてある式なのだが、いつも私は何か違和感を覚えながら黒板に書いている。t=0 でのみ∞の値を取るなどということは、どうにも直感的には考えにくい。t=0ではなく、微小有限幅を持ったt=-Δt~+Δtで考えるべきであり、∞はある上限を持った有限値(1/2Δ)と読み替えて私は内心理解をしている。
もう一つ、よく黒板に書く式にフーリエ変換の式がある。
F(jω)=∫f(t)exp(-jωt)dt
これは、時間積分の式であるが、積分範囲はマイナス∞からプラス∞である。これも、何かしっくりこない。時間には限りがあると考えるのが自然である。有限ではあるが、すごく大きな値と読み替えて、∞という記号は便宜的に借用しているものと私は理解している。
特に実害はないので、気持ちは悪いが∞という表現はそのまま使っている。(なお、アナログ信号をディジタル化しDFT(ディジタルフーリエ変換)まで話が進むと無限の問題は消える。従って、コンピュータの世界に入ってしまうと無限の話を引きずることはないのであるが。)
ところで、日頃自分の心のなかでくすぶっていたこの無限の問題に、たまたま明示的な形で直面したのが、先日ブログに書いたオイラーの自然数の無限和の公式の話である。
1+2+3+4+….=-1/12 という世にも不思議な公式である。
自然数の無限和が∞ではなく-1/12に収束するなど、そんな馬鹿なことがあるのだろうかと以前のブログ「オイラーの公式の謎」に書いた。そうしたら、数学の専門家らしき方が見つけてくださり、「それは無限和に対する定義の違いから発生するものなのだ。」というコメントを書き込んでくださった。
http://sakuraimac.exblog.jp/19944849
Twitterでも紹介してくれたので、その日一日で、私のこのマニアックなブログ記事へのアクセス件数がいきなり104件も発生したのでビックリしてしまった。
以来、技術者の私としては、以前から気持ちが悪くてしかたがなかった無限というものについて、少し調べて考えてみようという気になり、無限に関する数学と物理の本を読み始めた。
まだ勉強途上ではあるのだが、無限という概念は、昔から哲学・数学の分野では色々な人々が考え議論してきたようである。
ただ、物理学や工学の世界での無限と、数学の世界での無限では意味合いがどうも少し違うようだ。
物理学や工学では自然を相手にしており、手に負えないくらいの大きな量や数が多いものは、あまり深くは追求せずにとりあえず無限として表現する。しかしながら、その背後では、無限とは言いつつも、実際にはどこかで有限値となるだろうと、暗黙裏に解釈しながら無限という言葉を使っているフシがある。
ところが、数学の世界では、無限は純粋に無限である。したがって、無限に関しては、深い考察がなされ、数多くの研究者たちが、その解明に取り組んできた。また、無限の定義に関しても色々な試みが行われてきた。(前述のブログへのコメントも、無限はひとつの定義だけでは表せられないということを教えてくれたのだと思う。)
数学は物理学とは密接な関係があり、相互に大きな影響を与え合いながら発展してきたという歴史がある。物理学にとっては、数学は絶対なる信頼感のおける最高のパートナーである。物理学の上に成り立っている工学も同じである。したがって、数学に対して疑問を持つということは、我々にとっては、普通はまず有り得ないことである。
しかしながら、無限に関してだけは、ちょっと事情が違うような気がする。自然科学(ここでは物理学と工学をとりあえず考えているのだが)は、自然現象を解明するものであり、当然、完璧な論理を求める数学とは異なるものである。
あくまで、自然界に存在するものの解明が目的であり、自然界に存在しないものは、研究の対象とはならない。(人間の直観では存在は想像すらされなかったものが、数式によって予言され、後から自然界において発見されたという実例が数多くあることは事実であるとしても、やはり存在するということが大前提である。)
その観点からすると、「数学の世界で定義されるある種の無限というものは、自然界には存在せず、数学における無限の概念を、そのままそっくり自然科学に適用するのは間違いなのではないか?」という、素朴な疑問が私には湧いてくるのである。
その好例が、オイラーの無限和の公式、1+2+3+4+….=-1/12 なのではないかと思う。誤解を恐れずに言えば、この式は数学の世界の無限に関する一種の遊戯であり、自然科学にとっては、実在しない無意味なものではないか?という疑問である。
大栗博司先生が、自然科学である「超弦理論」の次元の説明に、数学の無限に対するある種の定義から生まれてきた公式、1+2+3+4+….=-1/12 をそのまま使うのは、不適切なことではないのかと、誠に恐れ多いことながら浅学シロウトから問題提起をしてみたい思いがしている。
ただし、私の考えは間違いであり、数学の無限の概念に基づく現象が、自然界でも存在するということが、実証される日がいつか来るのかもしれない。それが実証されるとしたら、おそらく超弦理論によるものになると想像されるのだが、こればかりはシロウトの私には全く予想がつかないことであるのだが・・・。
by sakuraimac
| 2013-12-09 06:34
| 科学技術
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