2014年 03月 23日
小澤征爾と石原莞爾 |
ちょっと前の話になるが、日経新聞の「私の履歴書」において、2014/1/1~1/31まで、小澤征爾氏が自伝を執筆していた。
小澤征爾氏は、言わずと知れた世界的な名指揮者。世界を相手に大活躍し、その実力は高く評価され、2002-2010年のまでウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めていた。
小澤征爾氏の業績の紹介はここでは省くが、上記の連載記事2回目と3回目には極めて興味深いことが書かれてあったので、ぜひここでご紹介してみたい。
まず、小澤氏の征爾という変わった名前は、生まれた満州の地で、父親の小澤開作と親しい関係にあった関東軍作戦参謀の板垣征四郎と石原莞爾から、一字づつもらって付けれたという話である。この話にはちょっと驚いた。
板垣征四郎は、陸軍大臣を務め、戦後はA級戦犯として処刑された。石原莞爾は、戦時中に軍役からはずされてしまったため、戦後も生き延びたが、満州事変を起こして日本を戦争に導いた張本人という評と、当時の日本では得難い天才的戦略家だったという評と、評価が二つに分かれている人物である。
私は、個人的に石原莞爾に興味を持って調べたことがあるので、ご興味のある方はぜひ下記の記事をご覧いただければ幸いである。
http://sakuraimac.exblog.jp/18435158
石原莞爾の歴史的評価は、とりあえず置いておくとして、小澤征爾氏の父親が自分の子供に名前を貰うほど心酔していたということは、板垣征四郎と石原莞爾はおそらく人間的には魅力的な人物であったのだろうということが想像される。
ところで、石原莞爾のことを調べていたときに、太平洋戦争に関する彼の発言の中に、「サイパン島さえ守れれば、まだ蒋介石に謝罪して中国と和解して日中戦争を終わらせる可能性があった。」という言葉があった。
彼の鋭く的を得た数々の言葉の中で、これだけは何か現実味が感じられず、一体何のことなのだろうかと釈然としない思いがずっと残っていた。
ところが、上記の小澤征爾氏の3回目の記事に、父親が陸軍軍需省の顧問となり対中和平工作に奔走していたことが紹介されていた。そのときに、蒋介石から、「天皇の特使として石原莞爾を出せ」との要求があったというのである。そのために、父親は仲間と手分けをして重臣たちの説得に回ったが、結局その工作は失敗に終わったと記されている。
この小澤征爾氏の記事と、石原莞爾の発言は見事に一致している。石原莞爾の言葉は、単なる希望的観測ではなく、実際の動きを背景した現実味のある言葉だったということがはじめて分かった。
その辺の事情に興味が湧いてきたので、色々調べてみたのだが、結局情報を見つけることはできなかった。「石原莞爾と小澤開作」という格好の本を見つけて、読んで見たのだが、肝心の日中和平工作の記述はない。まして、蒋介石から石原莞爾が指名されていたというような話しは見つからない。
ネットで調べても発見できなかった。私も歴史の専門家では全くないので、これ以上はお手上げ状態である。どなたか専門家が、この大変興味深い史実を調べて、教えてくだされば嬉しいのであるが。
小澤征爾氏は、言わずと知れた世界的な名指揮者。世界を相手に大活躍し、その実力は高く評価され、2002-2010年のまでウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めていた。
小澤征爾氏の業績の紹介はここでは省くが、上記の連載記事2回目と3回目には極めて興味深いことが書かれてあったので、ぜひここでご紹介してみたい。
まず、小澤氏の征爾という変わった名前は、生まれた満州の地で、父親の小澤開作と親しい関係にあった関東軍作戦参謀の板垣征四郎と石原莞爾から、一字づつもらって付けれたという話である。この話にはちょっと驚いた。
板垣征四郎は、陸軍大臣を務め、戦後はA級戦犯として処刑された。石原莞爾は、戦時中に軍役からはずされてしまったため、戦後も生き延びたが、満州事変を起こして日本を戦争に導いた張本人という評と、当時の日本では得難い天才的戦略家だったという評と、評価が二つに分かれている人物である。
私は、個人的に石原莞爾に興味を持って調べたことがあるので、ご興味のある方はぜひ下記の記事をご覧いただければ幸いである。
http://sakuraimac.exblog.jp/18435158
石原莞爾の歴史的評価は、とりあえず置いておくとして、小澤征爾氏の父親が自分の子供に名前を貰うほど心酔していたということは、板垣征四郎と石原莞爾はおそらく人間的には魅力的な人物であったのだろうということが想像される。
ところで、石原莞爾のことを調べていたときに、太平洋戦争に関する彼の発言の中に、「サイパン島さえ守れれば、まだ蒋介石に謝罪して中国と和解して日中戦争を終わらせる可能性があった。」という言葉があった。
彼の鋭く的を得た数々の言葉の中で、これだけは何か現実味が感じられず、一体何のことなのだろうかと釈然としない思いがずっと残っていた。
ところが、上記の小澤征爾氏の3回目の記事に、父親が陸軍軍需省の顧問となり対中和平工作に奔走していたことが紹介されていた。そのときに、蒋介石から、「天皇の特使として石原莞爾を出せ」との要求があったというのである。そのために、父親は仲間と手分けをして重臣たちの説得に回ったが、結局その工作は失敗に終わったと記されている。
この小澤征爾氏の記事と、石原莞爾の発言は見事に一致している。石原莞爾の言葉は、単なる希望的観測ではなく、実際の動きを背景した現実味のある言葉だったということがはじめて分かった。
その辺の事情に興味が湧いてきたので、色々調べてみたのだが、結局情報を見つけることはできなかった。「石原莞爾と小澤開作」という格好の本を見つけて、読んで見たのだが、肝心の日中和平工作の記述はない。まして、蒋介石から石原莞爾が指名されていたというような話しは見つからない。
ネットで調べても発見できなかった。私も歴史の専門家では全くないので、これ以上はお手上げ状態である。どなたか専門家が、この大変興味深い史実を調べて、教えてくだされば嬉しいのであるが。
by sakuraimac
| 2014-03-23 20:51
| 歴史
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