2015年 03月 02日
道義的責任について |
社会人となってからの40年間、ずっと気になってきた「道義的責任」という問題に対して、思考の途中ではあるが、少し書いて見たい。
地位責任と道義的責任の差異については、以前のブログに書いてみた。
http://sakuraimac.exblog.jp/20203665/
その2つ責任の特徴をもう一度整理しておく。
地位責任:契約に基いて、責任の範囲が規定される。責任を果たすと報酬があり、果たさない場合は、罰を受けることがある。一般に使われている責任という言葉は多くの場合これをさす。
道義的責任:当人の及ぼす影響力に応じて自然発生する。契約や責任範囲の概念は無い。果たしても果たさなくても責任追及も報酬も無い。一般には見えにくいが皆体感的に感じているようだ。
今まで、自分はこの2つを分けて考えて来たが、何かすっきりしない思いがずっと残ってきた。
会社内においては、普通は責任分担の決め方が完全ではなく、穴が出来る のは日常茶飯事である。それを皆苦労しながら、解決してしまっている。ただし散々苦労しているから、私の提示した、「三角ゾーン」の例え話には、皆食いついてくる。しかしながら、問題提起しても、私としてはその解決策は提示できなく、何となく尻切れトンボに終わってしまう。
そこで、このプロジェクトチームにおける責任問題からはいったん離れてみて、前から気になっていた出世していく人々の責任問題に焦点を当ててトレースしてみることとした。具体的には所長とか、事業部長とか、役員とか社長になるような人々である。それらの人々を観察してみると次の2つの特徴が見いだせる。
1.地位責任が案外と明確には定義されていない。結果責任の範囲は明確だが、実行責任は、担当レベルに比べて明らかにあいまいである。不祥事が起ると当人のせいではなくとも退陣させられる。利益が出るれば自分の働きでなくともさらに上にいく。どうも、明らかに下位レベルとは地位責任の意味あいが違う。
2.他者に与える影響力が圧倒的に大きい。ということは、よく考えると、特別大きな道義的責任がそこに自然発生していることになる。これも担当レベルとは全く違う。この結果、地位責任とは別に、道義的責任も果たさないと、結果において大きな影響力が出てしまうようだ。
上にいくほど、地位責任があいまいになり(結果責任は明確であるが実行責任は極めて不明確)、一方では道義的責任はどんどんと増大していくこととなる。
どうも、よくよく考えてみれば、トップが結果責任を問われるとき、そこには、地位責任のみではなく、道義的責任(影響力があるのに不作為であったという)がかなり含まれているようだということに、ここに至って気がついた。
会社時代を思い出すと、確かに地位責任のみを完璧に果たした人はある程度のところまで、昇進していた。しかしながら、どうもある地位で、挫折していたような気がする。その時に、その上の人がつぶやいていた言葉に「あいつは任せた部門はきちんとやる。が・・・」「どうも他部門から信頼されていないのだよな。」というようなことをつぶやいていた記憶がある。
自分が直接付き合ってきた様々な部長や課長たちを思い出してみると、同じ成果を上げたのにもかかわらず、周りからの評判とか信用度が、ものすごく違っていたような気がする。自分は、あるプロジェクトの設立に走り回っていたことがあるのだが、無意識のうちに頼りにして相談していた人々は、もちろん仕事が出来るのが第一条件なのだが、やはり、周りとか他部門にも信頼されている人々だった。
そして、私がよく相談していた人々は、プロジェクトの成功の後、かなりの確率で上まで昇進していった。少なくとも、その後は部門のキーパーソンとして大活躍していた。一方、私が相談しなかった人々は、何処かで挫折していた。相談しなかった人で昇進していた人がいたが、その人事に対して、他部門のえらい人が私に向かってつぶやいていた言葉は、「あいつを上げるようでは人が見えていない。」というものだった。
この体験をもう少し責任問題の面から考えてみると、信頼される人は地位責任をきちんと果たすとともに、自分の責任外の道義的責任もきちんと果たしていたような気がする。道義的責任を果たすとどうなるかというと、当人にとっては、自分の責任外のボランティア活動ではあるが、彼の影響力の及ぶ範囲で助かるかる人々が沢山出てくる。その結果、「あいつは頼りになるやつだ。」「信頼出来るやつだ。」「尊敬出来る」いうようなことが人々の印象に強く残る。この人々の心に残る印象というのが、組織内では意外と大きな力を発揮するようだ。
ごくたまに、ものすごく能力があって、大成果をあげながら、この辺の感覚の薄い人が、上に立ったりしてしまうこともある。そうすると、自然に自分と同類の、道義的責任感覚の薄い人を自分の配下に引き上げる。そのとたん組織の雰囲気は微妙に変化して行く。一見皆清々と安心して満足しながら日常業務に励んでいるのだが、気がつくと、自分の定義された範囲内にのみ閉じこもりその中で与えられた地位責任のみに注力している。
これは、完全なプロジェクトの失敗パターンのひとつである。しばらく経つと業績は、たぶん落ち込んで行くのだろう。もしもそのような人が不運にも社長の席にいたら、会社は潰れるかもしれない。
こうして考えてみると、自分が、一担当者時代から、何か、妙にこだわり続けてきた、道義的責任というのは、予想外に重要な概念だったのではないかと、最近思うようになった。しかも、道義的責任は尊敬とか信頼という言葉と密接に連動している。
「尊敬」とか「信頼」というのは、重要なキーワードなのだが、本題とは少し外れるので、これらはまた項を改めて自分の考えを述べてみたい。
ちょっとだけ付記しておくと、例えば、名経営者と呼ばれる人々はほとんど「人を大切にする、人を思いやる、人のやる気を起こさせる、人の為になる」と言うような表現を使って、人々に尊敬されている。例外もあるがそれは破壊的革新が求められる場合なのでここでは別の問題として除外する。
ところで、他人に影響力があるのは会社のトップばかりではない。
例として、子育てを考えてみる。母親の子供に対する影響力は圧倒的に大きい。母親は、法律とか契約に基づいて子育てをしているわけではない。もちろん、愛情とか自分の分身とか社会的規範とか色々な要素があるので、一概には何とも言えないのだが、少なくとも責任という面では、地位責任ではなく道義的責任に基づいて、子育てをしているのに違いない。
なので、育児において問題が発生すると、周りは困惑してしまう。社会的に明確にされていない道義的責任は公けには非常に問いにくい。 介護や、教育の場における問題にも似たようなところがあるようだ。
こうして見ると、道義的責任とは、指導者に立つようなトップ層と、一方では家庭といういわゆるボトム層において、最も重要な概念となってくるようだ。
プロジェクトの円滑な実行といういわばミドル層の視点から出発した、自分の道義的責任へのこだわりは、ボトムとトップという思わぬ方向に展開してしまった。
皮肉なことに、よくよく考えてみると、道義的責任というのは、実はミドル層ではそんなに必要のないものだったのだ。いや、正確に言うととても重要なのだが、そんなに致命的なものではない。何故なら各人の影響力はそれほど大きくないからである。これはちょっとした工夫で問題解決ができる。その工夫の知恵が浮かばないから皆困っているだけなのだ。
一方、ボトム層をよく見てみると、下手をすると子供が死ぬ。また、トップ層をよく見てみると、会社がつぶれ、社員が皆、露頭に迷う。そこにおける道義的責任の影響力と深刻さは、ミドル層の比ではない。
このことは、たぶん、皆、考えなくとも当たり前のこととして無意識に理解しているに違いない。しかしながら、凡人の私には、長年かかって、ようやく自分の抱えきた難問(パズル)の答えが得られたような気がしている。
たぶん、道義的責任は何かと人に問われれば、これからは、もう少し明解な答えを提示できそうな気がしている。
地位責任と道義的責任の差異については、以前のブログに書いてみた。
http://sakuraimac.exblog.jp/20203665/
その2つ責任の特徴をもう一度整理しておく。
地位責任:契約に基いて、責任の範囲が規定される。責任を果たすと報酬があり、果たさない場合は、罰を受けることがある。一般に使われている責任という言葉は多くの場合これをさす。
道義的責任:当人の及ぼす影響力に応じて自然発生する。契約や責任範囲の概念は無い。果たしても果たさなくても責任追及も報酬も無い。一般には見えにくいが皆体感的に感じているようだ。
今まで、自分はこの2つを分けて考えて来たが、何かすっきりしない思いがずっと残ってきた。
会社内においては、普通は責任分担の決め方が完全ではなく、穴が出来る のは日常茶飯事である。それを皆苦労しながら、解決してしまっている。ただし散々苦労しているから、私の提示した、「三角ゾーン」の例え話には、皆食いついてくる。しかしながら、問題提起しても、私としてはその解決策は提示できなく、何となく尻切れトンボに終わってしまう。
そこで、このプロジェクトチームにおける責任問題からはいったん離れてみて、前から気になっていた出世していく人々の責任問題に焦点を当ててトレースしてみることとした。具体的には所長とか、事業部長とか、役員とか社長になるような人々である。それらの人々を観察してみると次の2つの特徴が見いだせる。
1.地位責任が案外と明確には定義されていない。結果責任の範囲は明確だが、実行責任は、担当レベルに比べて明らかにあいまいである。不祥事が起ると当人のせいではなくとも退陣させられる。利益が出るれば自分の働きでなくともさらに上にいく。どうも、明らかに下位レベルとは地位責任の意味あいが違う。
2.他者に与える影響力が圧倒的に大きい。ということは、よく考えると、特別大きな道義的責任がそこに自然発生していることになる。これも担当レベルとは全く違う。この結果、地位責任とは別に、道義的責任も果たさないと、結果において大きな影響力が出てしまうようだ。
上にいくほど、地位責任があいまいになり(結果責任は明確であるが実行責任は極めて不明確)、一方では道義的責任はどんどんと増大していくこととなる。
どうも、よくよく考えてみれば、トップが結果責任を問われるとき、そこには、地位責任のみではなく、道義的責任(影響力があるのに不作為であったという)がかなり含まれているようだということに、ここに至って気がついた。
会社時代を思い出すと、確かに地位責任のみを完璧に果たした人はある程度のところまで、昇進していた。しかしながら、どうもある地位で、挫折していたような気がする。その時に、その上の人がつぶやいていた言葉に「あいつは任せた部門はきちんとやる。が・・・」「どうも他部門から信頼されていないのだよな。」というようなことをつぶやいていた記憶がある。
自分が直接付き合ってきた様々な部長や課長たちを思い出してみると、同じ成果を上げたのにもかかわらず、周りからの評判とか信用度が、ものすごく違っていたような気がする。自分は、あるプロジェクトの設立に走り回っていたことがあるのだが、無意識のうちに頼りにして相談していた人々は、もちろん仕事が出来るのが第一条件なのだが、やはり、周りとか他部門にも信頼されている人々だった。
そして、私がよく相談していた人々は、プロジェクトの成功の後、かなりの確率で上まで昇進していった。少なくとも、その後は部門のキーパーソンとして大活躍していた。一方、私が相談しなかった人々は、何処かで挫折していた。相談しなかった人で昇進していた人がいたが、その人事に対して、他部門のえらい人が私に向かってつぶやいていた言葉は、「あいつを上げるようでは人が見えていない。」というものだった。
この体験をもう少し責任問題の面から考えてみると、信頼される人は地位責任をきちんと果たすとともに、自分の責任外の道義的責任もきちんと果たしていたような気がする。道義的責任を果たすとどうなるかというと、当人にとっては、自分の責任外のボランティア活動ではあるが、彼の影響力の及ぶ範囲で助かるかる人々が沢山出てくる。その結果、「あいつは頼りになるやつだ。」「信頼出来るやつだ。」「尊敬出来る」いうようなことが人々の印象に強く残る。この人々の心に残る印象というのが、組織内では意外と大きな力を発揮するようだ。
ごくたまに、ものすごく能力があって、大成果をあげながら、この辺の感覚の薄い人が、上に立ったりしてしまうこともある。そうすると、自然に自分と同類の、道義的責任感覚の薄い人を自分の配下に引き上げる。そのとたん組織の雰囲気は微妙に変化して行く。一見皆清々と安心して満足しながら日常業務に励んでいるのだが、気がつくと、自分の定義された範囲内にのみ閉じこもりその中で与えられた地位責任のみに注力している。
これは、完全なプロジェクトの失敗パターンのひとつである。しばらく経つと業績は、たぶん落ち込んで行くのだろう。もしもそのような人が不運にも社長の席にいたら、会社は潰れるかもしれない。
こうして考えてみると、自分が、一担当者時代から、何か、妙にこだわり続けてきた、道義的責任というのは、予想外に重要な概念だったのではないかと、最近思うようになった。しかも、道義的責任は尊敬とか信頼という言葉と密接に連動している。
「尊敬」とか「信頼」というのは、重要なキーワードなのだが、本題とは少し外れるので、これらはまた項を改めて自分の考えを述べてみたい。
ちょっとだけ付記しておくと、例えば、名経営者と呼ばれる人々はほとんど「人を大切にする、人を思いやる、人のやる気を起こさせる、人の為になる」と言うような表現を使って、人々に尊敬されている。例外もあるがそれは破壊的革新が求められる場合なのでここでは別の問題として除外する。
ところで、他人に影響力があるのは会社のトップばかりではない。
例として、子育てを考えてみる。母親の子供に対する影響力は圧倒的に大きい。母親は、法律とか契約に基づいて子育てをしているわけではない。もちろん、愛情とか自分の分身とか社会的規範とか色々な要素があるので、一概には何とも言えないのだが、少なくとも責任という面では、地位責任ではなく道義的責任に基づいて、子育てをしているのに違いない。
なので、育児において問題が発生すると、周りは困惑してしまう。社会的に明確にされていない道義的責任は公けには非常に問いにくい。 介護や、教育の場における問題にも似たようなところがあるようだ。
こうして見ると、道義的責任とは、指導者に立つようなトップ層と、一方では家庭といういわゆるボトム層において、最も重要な概念となってくるようだ。
プロジェクトの円滑な実行といういわばミドル層の視点から出発した、自分の道義的責任へのこだわりは、ボトムとトップという思わぬ方向に展開してしまった。
皮肉なことに、よくよく考えてみると、道義的責任というのは、実はミドル層ではそんなに必要のないものだったのだ。いや、正確に言うととても重要なのだが、そんなに致命的なものではない。何故なら各人の影響力はそれほど大きくないからである。これはちょっとした工夫で問題解決ができる。その工夫の知恵が浮かばないから皆困っているだけなのだ。
一方、ボトム層をよく見てみると、下手をすると子供が死ぬ。また、トップ層をよく見てみると、会社がつぶれ、社員が皆、露頭に迷う。そこにおける道義的責任の影響力と深刻さは、ミドル層の比ではない。
このことは、たぶん、皆、考えなくとも当たり前のこととして無意識に理解しているに違いない。しかしながら、凡人の私には、長年かかって、ようやく自分の抱えきた難問(パズル)の答えが得られたような気がしている。
たぶん、道義的責任は何かと人に問われれば、これからは、もう少し明解な答えを提示できそうな気がしている。
by sakuraimac
| 2015-03-02 00:31
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