石油と太平洋戦争 |
文藝春秋の2017年1月号に、昭和史研究家の保坂正康氏の「真珠湾失敗の本質」という論評が載っていた。ベストセラーの「失敗の本質」が太平洋戦争における戦略や戦術の失敗に注目している一方、真珠湾攻撃から戦勝に興奮する半年間にこそ、日本人が学ぶべき教訓も多いのではないかという趣旨のものであった。
その中で保坂氏が、開戦時の詔書のことを、当時の参謀本部の石井秋穂大佐に聞いたときのことが記されている。「何故、“日本は西洋列強のアジア諸国の植民地支配に憤り覚えて立ち上がった。”との記述を入れなかったか。」との保坂氏の問いに、「当時の日本にはそんなことを考える余裕はなかった。石油が無ければダメだった。それで戦争となったのだ。」との石井秋穂氏の回答であったという。
ABCD包囲網で石油を禁輸され日本が開戦に向かったというのは、教科書にも載っている話ではあるが、保坂氏が改めて記載しているのを見て、石油が当時の日本にとって実際にどの程度の重みがあったのかて少し調べてみた[1][2]。
当時の産油国は米国、ソ連、インドネシアであった(中東はまだ開発が進んでいなかった)。日本は消費石油量(400万キロリットル)の80%以上を米国に頼っていた。したがって対米関係が悪化するにしたがって軍部には石油の備蓄への危機感が非常に高まっていた。
日本は蘭印(インドネシア)へ石油の輸入を打診するが、本国のオランダはABCD連合の一翼であり、ドイツと三国同盟を結んでいる敵国の日本への輸出は許されなかった。一方、米国は日本が中国から撤退しなければ石油を禁輸するとの圧力をかけていた。
日本は石油問題においては八方ふさがりの状態であった。石油を確保するためには、「南部仏印(ラオス,カンボジア,ベトナム)に進駐し、英米が妨害する場合は対英米戦争も予期する。」という方針が御前会議で確認される(昭和16年7月2日)。この方針に従い、日本軍は南部仏印に上陸する。米国はそれを見て石油の輸出を全面禁止し、さらに11/26に下記のハルノートが出される。
1.日本軍の中国、仏印からの撤退
2.中国において日本が支援する汪兆銘政府の否認
3.日独伊三国同盟の死文化
これは最後通牒で受諾は不可能、妥協の余地なしとして、12/1に御前会議にて対米英蘭戦開始の決定がなされる。
開戦に至るまでの道筋を見ると、石油の確保が大きな要因のひとつであったことは分かる。日本は、不幸にも仮想敵国である米国から、軍事に必要な石油の大半を輸入しなければならないという矛盾した状態に置かれていたとも言える。上述の石井秋穂氏の言葉は正確には次のようなものだったようだ[3]。「大東亜共栄圏の確立を説く論者もいるが、開戦名目案を作った者としてそれは違うと言いたい。開戦目的はあくまで自存自衛であり、日本は石油を南方に頼らざるを得なかった。国家政策にたずさわった者は、石油が無くなることへの恐怖感が大きかったという認識で一致していた。」
ところで一方では、全く異なる意見もあった。石原莞爾予備役中将は、田中新一陸軍参謀本部部長(*)に戦争直前にこう直言したという。「陸軍はアジアの開放を叫んで、その実、石油が欲しいのだろう。石油は米英と妥協すれば幾らでも輸入出来る。石油のために、一国の運命を賭して戦争をする馬鹿がどこにいる。」[2]。石原莞爾の言葉は全くの正論と思われる。
では英米との妥協すべき大きな2点、すなわち日中停戦と三国同盟の破棄は実際には可能だったのだろうか。
まず日中戦争の和平交渉については、日本側から何度も行われて失敗していた。コミンテルンや支那共産党の策謀のせいだという説もあれば、中央の指示に従わず現地軍が勝手に行動する日本に対して、蒋介石が不信感を持っていたとの説もある。その蒋介石が「石原莞爾を天皇の特使として出せば交渉に応ずる。」と述べたということを、日経新聞の「私の履歴書」で満州生まれの指揮者の小沢征爾氏が紹介している。
http://sakuraimac.exblog.jp/20496270/
蒋介石は、東条英樹と対立していた石原莞爾を信用できる軍人だと、評価していたらしい。もし石原莞爾がそれなりの地位にいて力があれば、日中和平への動きはもっと異ったものになっていたに違いない。
三国同盟については、遠い欧州2国との同盟契約なのだから、国益に反するとの判断さえできれば、白紙撤回はそんなに困難な決断ではないように今から見れば感ずる。(日本にとって失うものは特にないのだから)
日中戦争の拡大に反対した石原莞爾、三国同盟に反対した米内正光・山本五十六・井上成美のトリオ、彼らは陸軍や海軍の良識派と呼ばれている。良識派とは長い目で冷静に国益を考えることのできる人々のことを言うのだろうか。
(*)田中新一:陸軍参謀本部第一部長。対米関係が悪化する中、海軍軍務局の石川信吾らとともに、交渉の中止と開戦を強硬に主張し、陸海軍を開戦へと引っ張った一人と言われている。
[1] 岩間敏,“戦争と石油(1)”,石油天然ガスレビューVol.40,No.1,pp45-64,2006
[2] 岩間敏,“戦争と石油(2)”,石油天然ガスレビューVol.40,No.2,pp71-88,2006
[3] 保坂正康,”陸軍良識派の研究“,光人社,1996
[4] 三輪宗弘,"太平洋戦争と石油,日本経済評論社,2004
<追記1>ドイツは戦時中の石油を、ルーマニアの油田と石炭から造ったの人造石油から得ていた。日本も人造石油の生産を試みたが、ニッケルクロム鋼の不足などで量産には成功しなかった[4]。もし日本が人造石油の量産に成功していたら、歴史は少し変わっていたかもしれない。
<追記2>当時の石油埋蔵地域にはもうひとつ北樺太があった。日本はソ連と共同して開発を行ったが途中でスターリンに開発を断られる。当時の海軍に親ソ派が多かったのはこのへんの事情もあったようだ。