理工系大学教員の随想録です。m.sakurai@ieee.org
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by sakuraimac | 2013-12-23 09:26 | 文学 | Comments(1)
2013年 12月 15日

性善説と性悪説

会社に勤めていた頃、同僚に「○○さんは他人のいいところしか見ないのですね。」と言われたことがある。皮肉めいた忠告だったのだが、管理職につくときにはこれはけっこう重要なことだったのだなと、今でもこの言葉を時々思い出すことがある。(他人の欠点もしっかりと把握しておかないと、とんでもないところで、足をすくわれてしまうことがある。)

世の中には、他人の良い点に目が行く人と、欠点ばかりが気になる傾向の人の2種類があるようだ。(私は前者で、上記の同僚は後者のほうだったようである。)

他人を見る態度として、性善説と性悪説という言葉が時々使われる。他人の善意を信ずるか、信じないかという意味合いで使われることが多いが、語源の意味を調べると少しニュアンスが違うようだ。

性善説は、人間は生まれたときは無垢の善とも言うべき存在でありその後に悪を身につけていくとするものであり、性悪説は、人間は生まれたときは悪(利己的)であるが、その後に善を学んでいくとするものである。どちらも、人間の本性よりは、環境・教育の重要性を説いているのがその本来の意味合いのようである。

しかしながら、語源の意味合いはさて置いておいて、我々の関心事は、やはりその人の本性は何なのだろうか?という点に向かうのではないだろうか。

人気韓流ドラマの「トンイ」で、側室に昇格した主人公に対して、侍女が「何故あの者の罪を許すのですか。性根は変わりません。きっとまた災いを起こします。」と忠言するのに対して、主人公は「確かに、また裏切られるかもしれない。しかし私はあの者にチャンスを与えたい。かつて自分がチャンスを与えられてきたように。」と答える場面があった。

実社会においては、どちらの言い分も正しいに違いない。(なお、後者のような考え方をする人間は、優れた教育者になれても、トップリーダには向かないのかもしれないが。)

上記の会話の中で、「チャンスを与える」というのはとてもよい言葉だと印象に残っている。たまに遺伝子異常でどうしても悪いことしか考えられない人間もいるようだが、多くの人間は、より良くありたい、できれば人から好かれたいという欲求を持っているはずである。(これは、そのほうが当人にとって得になるからであり、性格が良いか悪いかという問題とは別のものと私は理解している。)

自分が向上できて生きがいを見出せるチャンスが与えられれば、程度の差こそあれ誰もが前向きに頑張るのではないだろうか。

一度失敗すると、そのチャンスはもう2度と訪れないという状況は、人を慎重かつ保身的で後ろ向きにしてしまう。今の日本の社会では、残念ながら、その傾向が色濃く残っている。企業社会では、まだまだ、ベンチャー企業の失敗者を救うセーフティネットが構築されていない。(米国シリコンバレーのベンチャー企業への投資においては、失敗の回数の多さもひとつの条件になるということを聞く。)
また、入口で正社員になれなければ、一生涯その格差は解消されない。再起のチャンスが非常に少ない社会なのである。

今の若者は覇気がない、チャレンジ精神が無いという話をよく耳にする。ところが、学生たちと直接に接してみると、私は、それはちょっと違うのではないかということを感じている。チャンスや目標を与え得ない社会構造が、一番の問題ないのではないだろうかと思うことが多いのである。

なお、米国でも安定性を求めて公務員を志向する学生もたくさんいるのだから、覇気やチャレンジ精神を全員に求めるのは無理なことは明らかである。ただし、そのような素養のある貴重な数少ない若者に、チャンスを与えられないこと、そして育てられていないことが、今の日本の非常に大きな問題なのだと感ずる。

さて、余談が長くなってしまったが、話を戻して、私自身は性悪説か性善説のどちらを信じているのだと問われれば、たぶん性悪説者だろうと思う。
冒頭の同僚に言わせれば、私は人のよい性善説者だと言うだろうが、私自身の主観から言えば、大多数の人間は基本的には自分の利益によってしか動かないと考えているので、性悪説者なのだろうと思う。

また、目前の利益と長期の利益(自己実現をし人に好かれて自分が幸福になる)の違いを悟るには、経験を積んで学ぶ必要もあると思うので、言葉の本来の意味に即してもやはり性悪説者となってしまう。(他人の善意を信じないという意味での性悪説とはちょっと違うのだが。)

<付記>
善意ということに関して少し付記しておきたい。例えば、危険にある見知らぬ子供を自分の身も顧みずとっさに助けるというのは、理屈を超えた人間の善性とも言えるだろう。隣人への親切も、不幸な人を助けて寄付やボランティアに参加するのも善意だろう。これらは純粋なものであり否定される余地はない。そういう無私の善意というものの存在は、私は信じている。

ただし、それは、どちらかというと例外的なもので多数派ではないとも思う。キリストが「罪なき者のみ石もてこの女を打て」と問うたとき、自分の心の中のうしろめたさに気がついてひとりひとり群衆が去っていくという有名な場面が聖書にある。それが平均的な人間の姿というものなのではないだろうか。(大衆の良心を覚醒させたキリストとは対照的に、大衆の良心を麻痺させた代表がヒトラーだったのではないだろうか。)

<蛇足>
蛇足ではあるが、上記の聖書の話に関連してどうしても思い浮かんでくる、正義感というものにも、ここでついでに触れておきたい。(本題からははずれるが、理系の私には発言する場が無いのでお許しのほどを)
正義感というのは、悪や不正や矛盾に憤る心情でのことであるが、それは無条件には肯定できない側面を持っている。
正義感が社会の不正をただし良い方向に向かわせるという例も少なくはないだろう。しかしながら、歴史を見てみると正義の名分のもとに(あるいはその名を利用して)行われた人間の非情なる悪業の、あまりの多さに慄然としてしまうことがある。

理想社会の実現を目指して20世紀に突如として生まれた共産主義革命は、人々のいだいた正義感と理想主義への期待とは全く裏腹に、言語に絶する悲惨極まりない多くの悲劇を世の中に生み出してしまった。古くは十字軍から始まり、中世の異端審問と魔女狩り、そしてフランス革命に代表される数々の民衆革命においても、そこで正義の名のもとに行われた残虐非道は数知れない。

日本での、昭和の軍部の独走に勢いをつける元となった、2・26事件を起こした青年将校たちは、皆、純真な正義感のもとに行動していた。決して悪い心を持っていた訳ではない。しかしながら、結果は日本を戦争へと導く大きな力となってしまった。そこに、正義というものの恐さがある。

人間は欲得づくの元で動き、それに若干のうしろめたさを感じている間はそんなにひどいことにはならない。ところが、正義の名分を与えられてそれを信じ込むと、どんなに残虐非道なことでも迷わずやってしまう。

欲得=悪 and 正義=善、という方程式は絶対に成り立たないのが人間の生きる社会だということは、歴史がはっきりと証明していると思う。
「欲得」はごく単純で目に見えるものなので、本人がそれを自覚している限りはあまり危険視する必要は無い。欲望を制御する社会ルールは人類が長年かけて作り上げてきた。
しかしながら、「正義」という概念は、時としてルールを力で根底から覆す力を持つ。それゆえに、それは本当に正しいものなのだろうかと、冷静になってとことん疑ってかかる姿勢というものが、我々には必要なのではないかと思うのである。

欲得を否定し、正義を標榜するものは、そこに悪意は無いにしても(むしろ無いがゆえに)、大きな危険性を内包している可能性があると疑ってかかってまず間違いはないと思う。自分が理性のある人間だと思うのなら、正義を安易に信じてその快感に酔ってはいけないのだ。(キリストに言われて気がつく前に)


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by sakuraimac | 2013-12-15 17:41 | 人生 | Comments(0)
2013年 12月 09日

無限について

電子工学の講義をしているとき、学生に説明しながら、いつも何か引っかっている式がある。それは、インパルスを表すデルタ関数δ(t)である。式で書くと以下のようになる。

δ(t)=0 : for t≠0、δ(t)=∞ : for t=0
∫δ(t)=1

これは、どの教科書にも書いてある式なのだが、いつも私は何か違和感を覚えながら黒板に書いている。t=0 でのみ∞の値を取るなどということは、どうにも直感的には考えにくい。t=0ではなく、微小有限幅を持ったt=-Δt~+Δtで考えるべきであり、∞はある上限を持った有限値(1/2Δ)と読み替えて私は内心理解をしている。

もう一つ、よく黒板に書く式にフーリエ変換の式がある。

F(jω)=∫f(t)exp(-jωt)dt

これは、時間積分の式であるが、積分範囲はマイナス∞からプラス∞である。これも、何かしっくりこない。時間には限りがあると考えるのが自然である。有限ではあるが、すごく大きな値と読み替えて、∞という記号は便宜的に借用しているものと私は理解している。

特に実害はないので、気持ちは悪いが∞という表現はそのまま使っている。(なお、アナログ信号をディジタル化しDFT(ディジタルフーリエ変換)まで話が進むと無限の問題は消える。従って、コンピュータの世界に入ってしまうと無限の話を引きずることはないのであるが。)

ところで、日頃自分の心のなかでくすぶっていたこの無限の問題に、たまたま明示的な形で直面したのが、先日ブログに書いたオイラーの自然数の無限和の公式の話である。

1+2+3+4+….=-1/12 という世にも不思議な公式である。

自然数の無限和が∞ではなく-1/12に収束するなど、そんな馬鹿なことがあるのだろうかと以前のブログ「オイラーの公式の謎」に書いた。そうしたら、数学の専門家らしき方が見つけてくださり、「それは無限和に対する定義の違いから発生するものなのだ。」というコメントを書き込んでくださった。

http://sakuraimac.exblog.jp/19944849

Twitterでも紹介してくれたので、その日一日で、私のこのマニアックなブログ記事へのアクセス件数がいきなり104件も発生したのでビックリしてしまった。

以来、技術者の私としては、以前から気持ちが悪くてしかたがなかった無限というものについて、少し調べて考えてみようという気になり、無限に関する数学と物理の本を読み始めた。

まだ勉強途上ではあるのだが、無限という概念は、昔から哲学・数学の分野では色々な人々が考え議論してきたようである。
ただ、物理学や工学の世界での無限と、数学の世界での無限では意味合いがどうも少し違うようだ。

物理学や工学では自然を相手にしており、手に負えないくらいの大きな量や数が多いものは、あまり深くは追求せずにとりあえず無限として表現する。しかしながら、その背後では、無限とは言いつつも、実際にはどこかで有限値となるだろうと、暗黙裏に解釈しながら無限という言葉を使っているフシがある。

ところが、数学の世界では、無限は純粋に無限である。したがって、無限に関しては、深い考察がなされ、数多くの研究者たちが、その解明に取り組んできた。また、無限の定義に関しても色々な試みが行われてきた。(前述のブログへのコメントも、無限はひとつの定義だけでは表せられないということを教えてくれたのだと思う。)

数学は物理学とは密接な関係があり、相互に大きな影響を与え合いながら発展してきたという歴史がある。物理学にとっては、数学は絶対なる信頼感のおける最高のパートナーである。物理学の上に成り立っている工学も同じである。したがって、数学に対して疑問を持つということは、我々にとっては、普通はまず有り得ないことである。

しかしながら、無限に関してだけは、ちょっと事情が違うような気がする。自然科学(ここでは物理学と工学をとりあえず考えているのだが)は、自然現象を解明するものであり、当然、完璧な論理を求める数学とは異なるものである。
あくまで、自然界に存在するものの解明が目的であり、自然界に存在しないものは、研究の対象とはならない。(人間の直観では存在は想像すらされなかったものが、数式によって予言され、後から自然界において発見されたという実例が数多くあることは事実であるとしても、やはり存在するということが大前提である。)

その観点からすると、「数学の世界で定義されるある種の無限というものは、自然界には存在せず、数学における無限の概念を、そのままそっくり自然科学に適用するのは間違いなのではないか?」という、素朴な疑問が私には湧いてくるのである。

その好例が、オイラーの無限和の公式、1+2+3+4+….=-1/12 なのではないかと思う。誤解を恐れずに言えば、この式は数学の世界の無限に関する一種の遊戯であり、自然科学にとっては、実在しない無意味なものではないか?という疑問である。

大栗博司先生が、自然科学である「超弦理論」の次元の説明に、数学の無限に対するある種の定義から生まれてきた公式、1+2+3+4+….=-1/12 をそのまま使うのは、不適切なことではないのかと、誠に恐れ多いことながら浅学シロウトから問題提起をしてみたい思いがしている。

ただし、私の考えは間違いであり、数学の無限の概念に基づく現象が、自然界でも存在するということが、実証される日がいつか来るのかもしれない。それが実証されるとしたら、おそらく超弦理論によるものになると想像されるのだが、こればかりはシロウトの私には全く予想がつかないことであるのだが・・・。


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by sakuraimac | 2013-12-09 06:34 | 科学技術 | Comments(0)
2013年 12月 02日

就職活動2014

今年も就職活動の時期になった。就職情報をこのブログで書くのはあまり気が進まないのだが、学生からのアクセスがいつも多いので、今年も情報としてちょっと載せてみる。

雑誌AERA(12.9号)に、主要企業102社に求める人材条件をアンケートした結果が出ている。それによると企業の求める人材能力の10位までは以下のようになっている。

1. 行動力(89社)
2. コミュニケーション能力(85社)
3. 積極性(80社)
4. 向上心(78社)
5. やる気・モチベーション(73社)
6. 柔軟性(67社)
7. 責任感(64社)
8. 基礎学力(62社)
9. ストレス耐性(46社)
10. 問題発見能力(44社)

また、経験については、
1. 部活動経験(74社)
2. サークル経験(70社)
3. 研究・学業に取り組んだ経験(67社)
4. アルバイト経験(66社)
5. 留学経験(63社)

昨年までは圧倒的な1位だったコミュニケーション能力が2位に後退して、行動力が1位となったのが印象的である。企業活動がより活発になってきたという証なのだろうか。1~5位まではとにかく前向きな積極性が求められている。
ただし、これらは理系と文系を合わせたものなので、ちょっと見方には気をつけなくてはならない。理系の研究開発職では、経験の項目3. の研究・学業に取り組んだ経験、をかなり重視する会社も少なくない。(研究や勉学についてきちんと説明ができないと、威勢のよいハッタリだけでは乗り切れないのである。)

就活成功者の話として、エントリーシートを書く際の体験談が載せられている。0歳から現在にいたるまでの自己分析シートを作成したというのだが、そのときに家族からの情報が非常に大きかったという。家族の協力も重要なのだ。

あと大切なのは、OB訪問であり、できるだけ社会人と接する機会を多く持つべきという意見も多い。

さて、エントリーの関門をくぐり抜けると、面接の本番が始まる。学生にとっては初めての経験であるが、これが中々大変である。大学の就職室における指導もあるが十分とは言えない。書店のマニュアル本などは読まないでほしいという企業担当者もいる。

まさか、研究室で研究指導教員が指導する訳にもいかないし(ひょとしたら必要なのかもしれないという思いが頭をかすめる昨今でもあるのだが)、うまい方法は中々無い。ただ、参考になる提言として、友人数人でグループを作って練習をすればよいというものがある。他人の欠点というのはよく見えるものなので、お互いに指摘し合うというのは理にかなっている。
面接官も友人も同じ人間、他人に好印象を与えるという意味では、人間評価の基本原則にそう大きな差はないと思われる。これは、学生諸君もぜひ参考にしてほしいところである。

なお、教員の立場としては、研究室の学生たちが、研究をそっちのけで就活に没頭するのは、正直のところ決して嬉しい話ではない。共同研究などでは進行が停滞してしまい非常に困ってしまう。だが、彼らにとっては一生の問題。我々としては、もはや仕方がないものとあきらめざるを得ない。

修士1年生は、皆、希望がかなってHappyに就職が決まって、早く元気で研究活動に戻ってきてほしいと願うのみである。

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by sakuraimac | 2013-12-02 18:37 | 教育・大学 | Comments(0)