2011年 09月 09日
函館 |
電子情報通信学会と情報処理学会の合同の全国大会FIT(情報科学技術フォーラム)に参加するために、函館を訪れた。夏の時期の北海道での学会開催は嬉しいところであるが、今回は台風一過の後で、少し肌寒いくらいの気候であった。
FITは、約900件ほどの発表のある、情報関連の学会としては国内最大規模のものである。我々の研究分野は電子工学であるが、その内容はどんどんと情報処理の分野と融合している。今後の、ITの分野の動向を見極める上でも大変参考となる学会でもある。
当研究室からは、5件の発表を行い、活発な議論が交わされ、新しい知り合いもできて大変有意義な機会でもあった。
ところで、私は、札幌生まれなので、昔は東京へ行くときは、函館で青函連絡船に乗り換え青森まで海を渡ったものである。その後、難工事の青函トンネルが1988年に完成し、青函連絡船は廃止され、鉄道は直通となった。しかしながら、すでに飛行機の時代に移っており、旅行するときは札幌から羽田への直行便を使うこととなり、函館とは子供の頃以来、本当に長い間ごぶさたになってしまっていた。
函館といえば、百万ドルの美しい夜景が有名であるが、私は、真っ先に明治初期の五稜郭を中心とした、函館戦争のことを思い浮かべてしまう。
明治元年、幕府艦隊を率いていた旧幕臣の榎本武揚は、徳川家に対する明治新政府の処置を不満とし、抗戦派の旧幕臣を乗せ北海道函館の五稜郭に陣を敷き、蝦夷共和国の独立を宣言する。そのとき、新撰組の土方歳三も部下を率いて参戦していたことは有名である。
榎本武揚の真意には、職を失った多くの旧幕臣を北海道に移住させ、そのエネルギーを北海道の開拓と北方防備に使おうというところにあったと言われている。
この思想は、不平士族を韓国に派遣しようとした目論見の征韓論が敗れて、九州に戻って不平士族とともに自ら滅びた西郷隆盛とどこか通ずるところがある。
当時は、開国したばかりの弱体の明治新政府にとっては、不平士族の扱いが最大の難題のひとつであった。それを、九州の地で、そして北海道の地で、解決しようとした西郷隆盛と榎本武揚の真意は、新政府の要人たちにも、それなりに理解されていたようだ。
それゆえ、西郷隆盛は、反乱軍の総大将でありながら、明治政府からは、逆賊として憎まれることはなく、明治22年に明治天皇の強い意向で赦され、正三位を追贈された。
また、榎本武揚は明治5年に特赦出獄し、その後、その才能を買われて明治新政府に登用され、大いに活躍した。
九州の西南戦争と北海道の函館戦争は、一見反乱戦争に見えるが、実は近代日本を作る上での、いわば残務整理のような働きをして、弱体の明治政府の安定化に貢献したともいえる。
江戸城の無血開城を含めて、幕末・明治初期の、日本を率いた人々の、賢明さと相互理解というものには、深く敬意の念を抱かざるを得ない。
ところで,坂本竜馬が北海道の開拓に大きな関心を持っており、坂本家の子孫が北海道の開発に大きな貢献をしてきたとのことを、つい最近知った。(「坂本龍馬と北海道」 原口泉 PHP新書)。それを記念して、2009年に、函館に坂本竜馬記念館が開かれた。
http://www.ryoma1115.com/index.html
不平士族の北海道への移住・開拓が、もし竜馬の意向どおり実現していたとしたら、函館戦争から西南戦争の間の多くの反乱と流血はすべて避けられていたかもしれない。流血を避け事態を前向きに解決しようとする坂本竜馬の大きな知恵と先見の明には、改めて感心するばかりである。



FITは、約900件ほどの発表のある、情報関連の学会としては国内最大規模のものである。我々の研究分野は電子工学であるが、その内容はどんどんと情報処理の分野と融合している。今後の、ITの分野の動向を見極める上でも大変参考となる学会でもある。
当研究室からは、5件の発表を行い、活発な議論が交わされ、新しい知り合いもできて大変有意義な機会でもあった。
ところで、私は、札幌生まれなので、昔は東京へ行くときは、函館で青函連絡船に乗り換え青森まで海を渡ったものである。その後、難工事の青函トンネルが1988年に完成し、青函連絡船は廃止され、鉄道は直通となった。しかしながら、すでに飛行機の時代に移っており、旅行するときは札幌から羽田への直行便を使うこととなり、函館とは子供の頃以来、本当に長い間ごぶさたになってしまっていた。
函館といえば、百万ドルの美しい夜景が有名であるが、私は、真っ先に明治初期の五稜郭を中心とした、函館戦争のことを思い浮かべてしまう。
明治元年、幕府艦隊を率いていた旧幕臣の榎本武揚は、徳川家に対する明治新政府の処置を不満とし、抗戦派の旧幕臣を乗せ北海道函館の五稜郭に陣を敷き、蝦夷共和国の独立を宣言する。そのとき、新撰組の土方歳三も部下を率いて参戦していたことは有名である。
榎本武揚の真意には、職を失った多くの旧幕臣を北海道に移住させ、そのエネルギーを北海道の開拓と北方防備に使おうというところにあったと言われている。
この思想は、不平士族を韓国に派遣しようとした目論見の征韓論が敗れて、九州に戻って不平士族とともに自ら滅びた西郷隆盛とどこか通ずるところがある。
当時は、開国したばかりの弱体の明治新政府にとっては、不平士族の扱いが最大の難題のひとつであった。それを、九州の地で、そして北海道の地で、解決しようとした西郷隆盛と榎本武揚の真意は、新政府の要人たちにも、それなりに理解されていたようだ。
それゆえ、西郷隆盛は、反乱軍の総大将でありながら、明治政府からは、逆賊として憎まれることはなく、明治22年に明治天皇の強い意向で赦され、正三位を追贈された。
また、榎本武揚は明治5年に特赦出獄し、その後、その才能を買われて明治新政府に登用され、大いに活躍した。
九州の西南戦争と北海道の函館戦争は、一見反乱戦争に見えるが、実は近代日本を作る上での、いわば残務整理のような働きをして、弱体の明治政府の安定化に貢献したともいえる。
江戸城の無血開城を含めて、幕末・明治初期の、日本を率いた人々の、賢明さと相互理解というものには、深く敬意の念を抱かざるを得ない。
ところで,坂本竜馬が北海道の開拓に大きな関心を持っており、坂本家の子孫が北海道の開発に大きな貢献をしてきたとのことを、つい最近知った。(「坂本龍馬と北海道」 原口泉 PHP新書)。それを記念して、2009年に、函館に坂本竜馬記念館が開かれた。
http://www.ryoma1115.com/index.html
不平士族の北海道への移住・開拓が、もし竜馬の意向どおり実現していたとしたら、函館戦争から西南戦争の間の多くの反乱と流血はすべて避けられていたかもしれない。流血を避け事態を前向きに解決しようとする坂本竜馬の大きな知恵と先見の明には、改めて感心するばかりである。



by sakuraimac
| 2011-09-09 07:22
| 旅行
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