2012年 02月 25日
永平寺 |
研究室の卒業旅行で、学生30名と北陸地方を旅してきた。今回は1泊のバス旅行で、永平寺、東尋坊、山代温泉、金沢と回ってきた。永平寺と東尋坊は、今回で訪れたのが二度目となったので、以前の訪問でもちょっと興味の沸いた永平寺について書いてみたい。
永平寺は全国に1 万5千の末寺を持つ曹洞宗の大本山である。福井県の人里離れた山の中にあり、樹齢600 年の杉の老木に囲まれている。日本最大の禅の修業寺であり、200名近くの若い修業僧(雲水)が修業を積んでいる。
修業の内容は、朝は三時半に起床し、座禅、掃除、読経、食事、写経などの厳しく規則正しい修行の毎日が続く。食事や入浴にも細かい規則があり、日常生活のすべてが修業の場とされている。
朝食は抜き、昼食はパソコンに向かいつつサンドイッチを食べ、夜は2時3時まで仕事をしているという不規則な生活をし、過多の情報に埋もれてアップアップしているわが身からすると、説明を聞いていると全く別世界の話という気がしてくる。
修業僧は雲水(雲が流れ水が流れるごとく仏法を修業するの意)と呼ばれる。今の若い人々が、何故このような世間から隔離された中で、自ら厳しい修業の道を選ぶのか不思議に思ったのだが、多くの雲水は、全国の各寺の跡取りの青年が修業に来ているとのことである。
ただ、その中にも、禅に興味のある人とか、社会生活に疑問を持った学生なども混ざっている。そのような人々の一人で、サラリーマンの身で1年間永平寺にて修業を積んだ人の体験記が出版されており中々興味深く読んだ。(“食う寝る座る 永平寺修業記” 野々村馨 著)
「殴られ蹴られ徹底的に叩きのめされるたびに、模造真珠の表面が剥がれ落ちるように気分が楽になった。今までは、傷つくまい、壊れまいと、模造の上っ面を必死にとりつくろってきた。しかし、剥がれるもが剥がれ落ち、取りつくろうものがなくなってしまうと、そこに剥きだしにされ残されたものが、まぎれもない自分自身だった。」
「うむを言わせずに身も心もがんじがらめに型にはめてしまうことによって、すべての執着を捨てさせるのである。」
我々のイメージする禅の修業とはちょっと異なり、そこでは暴力的な厳しい集団生活を通して、理性を剥奪して、動物としての本源的なものを思いおこさせる修業が行われている。こうして執着心と理性を取り除いた上で、瞑想や座禅に入る。その壮絶なる厳しい修業の実態には驚いてしまった。
観光客として永平寺を訪れても、こうした雲水たちの修業の実情やその人間関係は、一般の人には全く知るよしもないであろう。
私の実家の近くの鎌倉でも、円覚寺とか建長寺で、一般の人々に対して座禅会が催されている。永平寺でも同じく一般への座禅会の案内があった。しかしながら、座禅を行い講和を聞き薬石(夕食)を食しただけでは、この過酷なる雲水たちの修業は想像もつかないに違いない。
こうした厳しい壮絶なる修業を経たのちに、若い雲水たちは、各地の寺に戻り、寺の住職として生きていくのだなあと知って、ちょっと感動的でもあった。
これらのことを知ってから、永平寺を訪れて、修業中の雲水たちの姿を見れば、少し別の感慨が沸いてきたたに違いないと思った次第である。
永平寺は全国に1 万5千の末寺を持つ曹洞宗の大本山である。福井県の人里離れた山の中にあり、樹齢600 年の杉の老木に囲まれている。日本最大の禅の修業寺であり、200名近くの若い修業僧(雲水)が修業を積んでいる。
修業の内容は、朝は三時半に起床し、座禅、掃除、読経、食事、写経などの厳しく規則正しい修行の毎日が続く。食事や入浴にも細かい規則があり、日常生活のすべてが修業の場とされている。
朝食は抜き、昼食はパソコンに向かいつつサンドイッチを食べ、夜は2時3時まで仕事をしているという不規則な生活をし、過多の情報に埋もれてアップアップしているわが身からすると、説明を聞いていると全く別世界の話という気がしてくる。
修業僧は雲水(雲が流れ水が流れるごとく仏法を修業するの意)と呼ばれる。今の若い人々が、何故このような世間から隔離された中で、自ら厳しい修業の道を選ぶのか不思議に思ったのだが、多くの雲水は、全国の各寺の跡取りの青年が修業に来ているとのことである。
ただ、その中にも、禅に興味のある人とか、社会生活に疑問を持った学生なども混ざっている。そのような人々の一人で、サラリーマンの身で1年間永平寺にて修業を積んだ人の体験記が出版されており中々興味深く読んだ。(“食う寝る座る 永平寺修業記” 野々村馨 著)
「殴られ蹴られ徹底的に叩きのめされるたびに、模造真珠の表面が剥がれ落ちるように気分が楽になった。今までは、傷つくまい、壊れまいと、模造の上っ面を必死にとりつくろってきた。しかし、剥がれるもが剥がれ落ち、取りつくろうものがなくなってしまうと、そこに剥きだしにされ残されたものが、まぎれもない自分自身だった。」
「うむを言わせずに身も心もがんじがらめに型にはめてしまうことによって、すべての執着を捨てさせるのである。」
我々のイメージする禅の修業とはちょっと異なり、そこでは暴力的な厳しい集団生活を通して、理性を剥奪して、動物としての本源的なものを思いおこさせる修業が行われている。こうして執着心と理性を取り除いた上で、瞑想や座禅に入る。その壮絶なる厳しい修業の実態には驚いてしまった。
観光客として永平寺を訪れても、こうした雲水たちの修業の実情やその人間関係は、一般の人には全く知るよしもないであろう。
私の実家の近くの鎌倉でも、円覚寺とか建長寺で、一般の人々に対して座禅会が催されている。永平寺でも同じく一般への座禅会の案内があった。しかしながら、座禅を行い講和を聞き薬石(夕食)を食しただけでは、この過酷なる雲水たちの修業は想像もつかないに違いない。
こうした厳しい壮絶なる修業を経たのちに、若い雲水たちは、各地の寺に戻り、寺の住職として生きていくのだなあと知って、ちょっと感動的でもあった。
これらのことを知ってから、永平寺を訪れて、修業中の雲水たちの姿を見れば、少し別の感慨が沸いてきたたに違いないと思った次第である。
by sakuraimac
| 2012-02-25 17:46
| 旅行
|
Comments(2)
Commented
at 2012-03-10 22:06
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
sakuraimac at 2012-03-10 23:00
jayjayさん、コメントありがとうございます。
私の妻も、建長寺の座禅コースに行ってきたようですが、感想を聞いても、何だかあまりはっきりしません。
夏目漱石の小説「門」でも、たしか主人公は参禅しますが、悟りは得られなかったですよね。
私は、毎日の職務に追われて、参禅しようなどという思う暇もありません。と言いつつブログだけはせっせと書いてますが・・。
私の妻も、建長寺の座禅コースに行ってきたようですが、感想を聞いても、何だかあまりはっきりしません。
夏目漱石の小説「門」でも、たしか主人公は参禅しますが、悟りは得られなかったですよね。
私は、毎日の職務に追われて、参禅しようなどという思う暇もありません。と言いつつブログだけはせっせと書いてますが・・。
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