2012年 06月 24日
見るということ |
「百聞は一見にしかず」と言う言葉がある。優れた経営者は、皆「まず現場を見よ」と言う。これは、全く正しいと思う。
かつて、大韓航空機爆破事件というものがあった。1987年に大韓航空の旅客機が北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破され墜落したテロ事件である。日本大使館員の活躍でバーレーン空港にて拘束された2人の工作員は、1名が服毒自殺し1名が逮捕され身柄を韓国当局に引き渡される。自殺防止用のマスクをはめられ、捜査官に挟まれてタラップを降りる容疑者の金賢姫(キム・ヒョンヒ)の姿をニュース映像で見た多くの日本人は、これから彼女に対して、韓国当局の熾烈な拷問による取り調べが行なわれることを想像したと思う。
しかしながら、実際に韓国当局の取った処置は全く違っていた。最初に彼らがやったことは、彼女を車に乗せ、一日ソウル市内を見学させたことであった。その瞬間に、金賢姫は、韓国の実態というものが、自分が北朝鮮で教え込まれてきたものとは全く違うことを悟る。死を覚悟して口を閉ざしていた彼女は、これを境に全面自供を始めたという。
このように、実際に見るということは、人間の強固な信念さえをも瞬時に一変させるだけの極めて強いインパクトを持っている。
ただし、気をつけねばならないのは、その強力なインパクトのゆえに、そこにひとつ重大な陥穽があるということに、我々は常に注意を払わねばならないということである。一番の問題なのは、見た人が自分の目にしたものを絶対真実として固く信じて疑わない場合である。
単純な例として三角柱をあげてみよう。上から見た人は三角形だと言い、横から見た人は四角形だと言う。どちらも間違いではなく、自分の見たものを信じているので、永久に議論はかみ合わずに決裂する。このような例は、ずいぶんと世の中に多いような気がする。
この問題を解決するのは、誰にでも容易に分かることだが、当人の見ている位置を、ちょっとだけ移動させればよい。それだけで、問題は瞬時に解決される。
見る位置を移動させてみる、これは、人間が生きていく上で実に重要なことなのではないかと思う。しかしながら、自分自身の力でこれを実行するのは実は大変難しい。
人が言うことは、まず疑ってみる。別の角度から見た意見も必ず聞いてみる。これは、おそらく人の上に立つような人々は皆、無意識のうちに必ず行っていることであろう。そうでなくては、責任ある判断を下すことはできないからである。
しかしながら、自分の目で見たと信じている事柄については、それを自ら疑ってみるということは、人間にとっては至難の業のようだ。
自分が見たと信じてきた三角形は、実は、横に回ってみたら四角形だったのかもしれないと、常に自分の視点について疑いを持ち、検証してみるということは、指導者のみならず、平凡な一市民が幸せに生きていくためにも、非常に重要なことなのではないのかなと思うのである。
それと同じ理屈で、我々は世の中にひんぱんに流される映像というものにも、常に疑いの目を持って、これに接しなければいけないと思う。どの視点から見たかということと、何を見せて何を見せないかということ自体に、情報提供者の重大な恣意(それは必ずしも意識的ではかもしれないが)存在するからである。ということは、皆、何となく感じていることでもあるだろうが、視覚のインパクトの大きさの前に、ともするとそのことを忘れがちになる。
見るということは何もまして重要なことである。しかしながら、見たからといって、安心してしまってはいけないのも、さらに重要なことだと思う。
<補足>見ることの空間的な視点について書いてみたが、もうひとつ重要なこととして時間的な視点もあげておかねばならない。身近な例を挙げれば、自動車学校でしつこく指導される車線変更の際の側面確認がある。時間が経てば、自分の見た風景は確実に変わっているのである。過去に見たことを決して盲信してはいけないのだ。

かつて、大韓航空機爆破事件というものがあった。1987年に大韓航空の旅客機が北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破され墜落したテロ事件である。日本大使館員の活躍でバーレーン空港にて拘束された2人の工作員は、1名が服毒自殺し1名が逮捕され身柄を韓国当局に引き渡される。自殺防止用のマスクをはめられ、捜査官に挟まれてタラップを降りる容疑者の金賢姫(キム・ヒョンヒ)の姿をニュース映像で見た多くの日本人は、これから彼女に対して、韓国当局の熾烈な拷問による取り調べが行なわれることを想像したと思う。
しかしながら、実際に韓国当局の取った処置は全く違っていた。最初に彼らがやったことは、彼女を車に乗せ、一日ソウル市内を見学させたことであった。その瞬間に、金賢姫は、韓国の実態というものが、自分が北朝鮮で教え込まれてきたものとは全く違うことを悟る。死を覚悟して口を閉ざしていた彼女は、これを境に全面自供を始めたという。
このように、実際に見るということは、人間の強固な信念さえをも瞬時に一変させるだけの極めて強いインパクトを持っている。
ただし、気をつけねばならないのは、その強力なインパクトのゆえに、そこにひとつ重大な陥穽があるということに、我々は常に注意を払わねばならないということである。一番の問題なのは、見た人が自分の目にしたものを絶対真実として固く信じて疑わない場合である。
単純な例として三角柱をあげてみよう。上から見た人は三角形だと言い、横から見た人は四角形だと言う。どちらも間違いではなく、自分の見たものを信じているので、永久に議論はかみ合わずに決裂する。このような例は、ずいぶんと世の中に多いような気がする。
この問題を解決するのは、誰にでも容易に分かることだが、当人の見ている位置を、ちょっとだけ移動させればよい。それだけで、問題は瞬時に解決される。
見る位置を移動させてみる、これは、人間が生きていく上で実に重要なことなのではないかと思う。しかしながら、自分自身の力でこれを実行するのは実は大変難しい。
人が言うことは、まず疑ってみる。別の角度から見た意見も必ず聞いてみる。これは、おそらく人の上に立つような人々は皆、無意識のうちに必ず行っていることであろう。そうでなくては、責任ある判断を下すことはできないからである。
しかしながら、自分の目で見たと信じている事柄については、それを自ら疑ってみるということは、人間にとっては至難の業のようだ。
自分が見たと信じてきた三角形は、実は、横に回ってみたら四角形だったのかもしれないと、常に自分の視点について疑いを持ち、検証してみるということは、指導者のみならず、平凡な一市民が幸せに生きていくためにも、非常に重要なことなのではないのかなと思うのである。
それと同じ理屈で、我々は世の中にひんぱんに流される映像というものにも、常に疑いの目を持って、これに接しなければいけないと思う。どの視点から見たかということと、何を見せて何を見せないかということ自体に、情報提供者の重大な恣意(それは必ずしも意識的ではかもしれないが)存在するからである。ということは、皆、何となく感じていることでもあるだろうが、視覚のインパクトの大きさの前に、ともするとそのことを忘れがちになる。
見るということは何もまして重要なことである。しかしながら、見たからといって、安心してしまってはいけないのも、さらに重要なことだと思う。
<補足>見ることの空間的な視点について書いてみたが、もうひとつ重要なこととして時間的な視点もあげておかねばならない。身近な例を挙げれば、自動車学校でしつこく指導される車線変更の際の側面確認がある。時間が経てば、自分の見た風景は確実に変わっているのである。過去に見たことを決して盲信してはいけないのだ。

by sakuraimac
| 2012-06-24 21:47
| 人生
|
Comments(2)
”Seeing is believing.”と「百聞は一見にしかず」を受験時代に一対で記憶させられた。 前者の直訳は「見ることは信じること」、後者の直訳は「他人の伝聞を何度も傾聴するより、現地現物で自分の目で一度で良いから確認することだ。そのことで本質が分かることもある」とでも訳すのだろうか。 受験英語で記憶した2句には、微妙なニュアンスの差があると思う。 よく社員にこんな話をする。 「あるシューズメーカがセールスマン2人をアフリカ駐在員に派遣した。サバンナからの第一声は、一人は〝アフリカには無限のチャンスがある!”と歓喜し、他の一人は裸足の大地でクツは売れない!速やかに帰国する!と絶望した。 どういう問題意識を持って、対象物の何を見るかによって私達の目の前の風景や人生は変わる。
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なるほど、全く同じものを見ても、見る人の問題意識によって風景と人生が変わるということですね。ビジネスにかかわるjayjayさんならではの見識ですね。

