2013年 12月 15日
性善説と性悪説 |
会社に勤めていた頃、同僚に「○○さんは他人のいいところしか見ないのですね。」と言われたことがある。皮肉めいた忠告だったのだが、管理職につくときにはこれはけっこう重要なことだったのだなと、今でもこの言葉を時々思い出すことがある。(他人の欠点もしっかりと把握しておかないと、とんでもないところで、足をすくわれてしまうことがある。)
世の中には、他人の良い点に目が行く人と、欠点ばかりが気になる傾向の人の2種類があるようだ。(私は前者で、上記の同僚は後者のほうだったようである。)
他人を見る態度として、性善説と性悪説という言葉が時々使われる。他人の善意を信ずるか、信じないかという意味合いで使われることが多いが、語源の意味を調べると少しニュアンスが違うようだ。
性善説は、人間は生まれたときは無垢の善とも言うべき存在でありその後に悪を身につけていくとするものであり、性悪説は、人間は生まれたときは悪(利己的)であるが、その後に善を学んでいくとするものである。どちらも、人間の本性よりは、環境・教育の重要性を説いているのがその本来の意味合いのようである。
しかしながら、語源の意味合いはさて置いておいて、我々の関心事は、やはりその人の本性は何なのだろうか?という点に向かうのではないだろうか。
人気韓流ドラマの「トンイ」で、側室に昇格した主人公に対して、侍女が「何故あの者の罪を許すのですか。性根は変わりません。きっとまた災いを起こします。」と忠言するのに対して、主人公は「確かに、また裏切られるかもしれない。しかし私はあの者にチャンスを与えたい。かつて自分がチャンスを与えられてきたように。」と答える場面があった。
実社会においては、どちらの言い分も正しいに違いない。(なお、後者のような考え方をする人間は、優れた教育者になれても、トップリーダには向かないのかもしれないが。)
上記の会話の中で、「チャンスを与える」というのはとてもよい言葉だと印象に残っている。たまに遺伝子異常でどうしても悪いことしか考えられない人間もいるようだが、多くの人間は、より良くありたい、できれば人から好かれたいという欲求を持っているはずである。(これは、そのほうが当人にとって得になるからであり、性格が良いか悪いかという問題とは別のものと私は理解している。)
自分が向上できて生きがいを見出せるチャンスが与えられれば、程度の差こそあれ誰もが前向きに頑張るのではないだろうか。
一度失敗すると、そのチャンスはもう2度と訪れないという状況は、人を慎重かつ保身的で後ろ向きにしてしまう。今の日本の社会では、残念ながら、その傾向が色濃く残っている。企業社会では、まだまだ、ベンチャー企業の失敗者を救うセーフティネットが構築されていない。(米国シリコンバレーのベンチャー企業への投資においては、失敗の回数の多さもひとつの条件になるということを聞く。)
また、入口で正社員になれなければ、一生涯その格差は解消されない。再起のチャンスが非常に少ない社会なのである。
今の若者は覇気がない、チャレンジ精神が無いという話をよく耳にする。ところが、学生たちと直接に接してみると、私は、それはちょっと違うのではないかということを感じている。チャンスや目標を与え得ない社会構造が、一番の問題ないのではないだろうかと思うことが多いのである。
なお、米国でも安定性を求めて公務員を志向する学生もたくさんいるのだから、覇気やチャレンジ精神を全員に求めるのは無理なことは明らかである。ただし、そのような素養のある貴重な数少ない若者に、チャンスを与えられないこと、そして育てられていないことが、今の日本の非常に大きな問題なのだと感ずる。
さて、余談が長くなってしまったが、話を戻して、私自身は性悪説か性善説のどちらを信じているのだと問われれば、たぶん性悪説者だろうと思う。
冒頭の同僚に言わせれば、私は人のよい性善説者だと言うだろうが、私自身の主観から言えば、大多数の人間は基本的には自分の利益によってしか動かないと考えているので、性悪説者なのだろうと思う。
また、目前の利益と長期の利益(自己実現をし人に好かれて自分が幸福になる)の違いを悟るには、経験を積んで学ぶ必要もあると思うので、言葉の本来の意味に即してもやはり性悪説者となってしまう。(他人の善意を信じないという意味での性悪説とはちょっと違うのだが。)
<付記>
善意ということに関して少し付記しておきたい。例えば、危険にある見知らぬ子供を自分の身も顧みずとっさに助けるというのは、理屈を超えた人間の善性とも言えるだろう。隣人への親切も、不幸な人を助けて寄付やボランティアに参加するのも善意だろう。これらは純粋なものであり否定される余地はない。そういう無私の善意というものの存在は、私は信じている。
ただし、それは、どちらかというと例外的なもので多数派ではないとも思う。キリストが「罪なき者のみ石もてこの女を打て」と問うたとき、自分の心の中のうしろめたさに気がついてひとりひとり群衆が去っていくという有名な場面が聖書にある。それが平均的な人間の姿というものなのではないだろうか。(大衆の良心を覚醒させたキリストとは対照的に、大衆の良心を麻痺させた代表がヒトラーだったのではないだろうか。)
<蛇足>
蛇足ではあるが、上記の聖書の話に関連してどうしても思い浮かんでくる、正義感というものにも、ここでついでに触れておきたい。(本題からははずれるが、理系の私には発言する場が無いのでお許しのほどを)
世の中には、他人の良い点に目が行く人と、欠点ばかりが気になる傾向の人の2種類があるようだ。(私は前者で、上記の同僚は後者のほうだったようである。)
他人を見る態度として、性善説と性悪説という言葉が時々使われる。他人の善意を信ずるか、信じないかという意味合いで使われることが多いが、語源の意味を調べると少しニュアンスが違うようだ。
性善説は、人間は生まれたときは無垢の善とも言うべき存在でありその後に悪を身につけていくとするものであり、性悪説は、人間は生まれたときは悪(利己的)であるが、その後に善を学んでいくとするものである。どちらも、人間の本性よりは、環境・教育の重要性を説いているのがその本来の意味合いのようである。
しかしながら、語源の意味合いはさて置いておいて、我々の関心事は、やはりその人の本性は何なのだろうか?という点に向かうのではないだろうか。
人気韓流ドラマの「トンイ」で、側室に昇格した主人公に対して、侍女が「何故あの者の罪を許すのですか。性根は変わりません。きっとまた災いを起こします。」と忠言するのに対して、主人公は「確かに、また裏切られるかもしれない。しかし私はあの者にチャンスを与えたい。かつて自分がチャンスを与えられてきたように。」と答える場面があった。
実社会においては、どちらの言い分も正しいに違いない。(なお、後者のような考え方をする人間は、優れた教育者になれても、トップリーダには向かないのかもしれないが。)
上記の会話の中で、「チャンスを与える」というのはとてもよい言葉だと印象に残っている。たまに遺伝子異常でどうしても悪いことしか考えられない人間もいるようだが、多くの人間は、より良くありたい、できれば人から好かれたいという欲求を持っているはずである。(これは、そのほうが当人にとって得になるからであり、性格が良いか悪いかという問題とは別のものと私は理解している。)
自分が向上できて生きがいを見出せるチャンスが与えられれば、程度の差こそあれ誰もが前向きに頑張るのではないだろうか。
一度失敗すると、そのチャンスはもう2度と訪れないという状況は、人を慎重かつ保身的で後ろ向きにしてしまう。今の日本の社会では、残念ながら、その傾向が色濃く残っている。企業社会では、まだまだ、ベンチャー企業の失敗者を救うセーフティネットが構築されていない。(米国シリコンバレーのベンチャー企業への投資においては、失敗の回数の多さもひとつの条件になるということを聞く。)
また、入口で正社員になれなければ、一生涯その格差は解消されない。再起のチャンスが非常に少ない社会なのである。
今の若者は覇気がない、チャレンジ精神が無いという話をよく耳にする。ところが、学生たちと直接に接してみると、私は、それはちょっと違うのではないかということを感じている。チャンスや目標を与え得ない社会構造が、一番の問題ないのではないだろうかと思うことが多いのである。
なお、米国でも安定性を求めて公務員を志向する学生もたくさんいるのだから、覇気やチャレンジ精神を全員に求めるのは無理なことは明らかである。ただし、そのような素養のある貴重な数少ない若者に、チャンスを与えられないこと、そして育てられていないことが、今の日本の非常に大きな問題なのだと感ずる。
さて、余談が長くなってしまったが、話を戻して、私自身は性悪説か性善説のどちらを信じているのだと問われれば、たぶん性悪説者だろうと思う。
冒頭の同僚に言わせれば、私は人のよい性善説者だと言うだろうが、私自身の主観から言えば、大多数の人間は基本的には自分の利益によってしか動かないと考えているので、性悪説者なのだろうと思う。
また、目前の利益と長期の利益(自己実現をし人に好かれて自分が幸福になる)の違いを悟るには、経験を積んで学ぶ必要もあると思うので、言葉の本来の意味に即してもやはり性悪説者となってしまう。(他人の善意を信じないという意味での性悪説とはちょっと違うのだが。)
<付記>
善意ということに関して少し付記しておきたい。例えば、危険にある見知らぬ子供を自分の身も顧みずとっさに助けるというのは、理屈を超えた人間の善性とも言えるだろう。隣人への親切も、不幸な人を助けて寄付やボランティアに参加するのも善意だろう。これらは純粋なものであり否定される余地はない。そういう無私の善意というものの存在は、私は信じている。
ただし、それは、どちらかというと例外的なもので多数派ではないとも思う。キリストが「罪なき者のみ石もてこの女を打て」と問うたとき、自分の心の中のうしろめたさに気がついてひとりひとり群衆が去っていくという有名な場面が聖書にある。それが平均的な人間の姿というものなのではないだろうか。(大衆の良心を覚醒させたキリストとは対照的に、大衆の良心を麻痺させた代表がヒトラーだったのではないだろうか。)
<蛇足>
蛇足ではあるが、上記の聖書の話に関連してどうしても思い浮かんでくる、正義感というものにも、ここでついでに触れておきたい。(本題からははずれるが、理系の私には発言する場が無いのでお許しのほどを)
正義感というのは、悪や不正や矛盾に憤る心情でのことであるが、それは無条件には肯定できない側面を持っている。
正義感が社会の不正をただし良い方向に向かわせるという例も少なくはないだろう。しかしながら、歴史を見てみると正義の名分のもとに(あるいはその名を利用して)行われた人間の非情なる悪業の、あまりの多さに慄然としてしまうことがある。
理想社会の実現を目指して20世紀に突如として生まれた共産主義革命は、人々のいだいた正義感と理想主義への期待とは全く裏腹に、言語に絶する悲惨極まりない多くの悲劇を世の中に生み出してしまった。古くは十字軍から始まり、中世の異端審問と魔女狩り、そしてフランス革命に代表される数々の民衆革命においても、そこで正義の名のもとに行われた残虐非道は数知れない。
日本での、昭和の軍部の独走に勢いをつける元となった、2・26事件を起こした青年将校たちは、皆、純真な正義感のもとに行動していた。決して悪い心を持っていた訳ではない。しかしながら、結果は日本を戦争へと導く大きな力となってしまった。そこに、正義というものの恐さがある。
人間は欲得づくの元で動き、それに若干のうしろめたさを感じている間はそんなにひどいことにはならない。ところが、正義の名分を与えられてそれを信じ込むと、どんなに残虐非道なことでも迷わずやってしまう。
欲得=悪 and 正義=善、という方程式は絶対に成り立たないのが人間の生きる社会だということは、歴史がはっきりと証明していると思う。
正義感が社会の不正をただし良い方向に向かわせるという例も少なくはないだろう。しかしながら、歴史を見てみると正義の名分のもとに(あるいはその名を利用して)行われた人間の非情なる悪業の、あまりの多さに慄然としてしまうことがある。
理想社会の実現を目指して20世紀に突如として生まれた共産主義革命は、人々のいだいた正義感と理想主義への期待とは全く裏腹に、言語に絶する悲惨極まりない多くの悲劇を世の中に生み出してしまった。古くは十字軍から始まり、中世の異端審問と魔女狩り、そしてフランス革命に代表される数々の民衆革命においても、そこで正義の名のもとに行われた残虐非道は数知れない。
日本での、昭和の軍部の独走に勢いをつける元となった、2・26事件を起こした青年将校たちは、皆、純真な正義感のもとに行動していた。決して悪い心を持っていた訳ではない。しかしながら、結果は日本を戦争へと導く大きな力となってしまった。そこに、正義というものの恐さがある。
人間は欲得づくの元で動き、それに若干のうしろめたさを感じている間はそんなにひどいことにはならない。ところが、正義の名分を与えられてそれを信じ込むと、どんなに残虐非道なことでも迷わずやってしまう。
欲得=悪 and 正義=善、という方程式は絶対に成り立たないのが人間の生きる社会だということは、歴史がはっきりと証明していると思う。
「欲得」はごく単純で目に見えるものなので、本人がそれを自覚している限りはあまり危険視する必要は無い。欲望を制御する社会ルールは人類が長年かけて作り上げてきた。
by sakuraimac
| 2013-12-15 17:41
| 人生
|
Comments(0)