2014年 01月 13日
共産主義と中国について |
私は、長年電機メーカの研究開発の場で働き、縁あって大学に職を得た一介の電子工学の技術者である。したがって、政治・経済・社会・歴史などの分野においては、全くの門外漢のシロウトである。
なので、ここに大上段に書くのは、非常に躊躇してしまうのだが、どうも他の人や新聞があまりはっきりとは書いてくれないので、長年気になってしかたなかったことを、今あえてここにつぶやいてみようと思い立ったしだいである。
私が大学に入学した年は1969年。大学紛争真只中で、東大の安田講堂に過激派学生が立てこもり、これを排除するために機動隊と放水車が出動し、この騒ぎによって東大の入試が中止された年であった。私が入学した東工大は、学生たちによって大学はロックアウトされ、半年間授業は中止されていた。
その大学内においては、中核派、革マル派などと呼ばれる学生の集団が、口角泡を飛ばして議論をし、連日のように大規模な街頭デモを組織して行っていた。私は全くのノンポリ(non politics)学生で傍観していただけであるが、頭もよく善良な彼らを突き動かしている左翼思想(具体的にはマルクス・エンゲルスの唯物史観と階級闘争論)には、何か違和感を覚えていた。
その違和感を今になってあえて整理してみると、以前のブログ「経済学は科学か?」でちょっと触れたことでもあるが、2点あり、ひとつは科学とは言えない唯物史観が、あたかも科学のように再現性のある真実であると知的人々の間で信じられてしまったこと、もう1点は、階級闘争論が、搾取の構造を変えるためには人を殺してもかまわないという正義の名分を人々に与えてしまったところにあったと思う。
共産主義への共鳴は、貧富の差の大きい悲惨な現実に対する憤りと理想社会をめざす正義感がもとになっていたので、決して不誠実なものではなかった。その理想論は知的人々に支持され、平等社会の実現は大衆に支持されたわけである。
しかしながら、理想というものは時として現実を無視し、正義というものは時として無実の人々を断罪する。
人々の純粋な期待とはうらはらに、理想と正義の名のもとに、現実の世界ではどれだけの悲惨なる残虐行為が行われていたかを示す歴史資料として、1997年にフランスで発行され欧州ではベストセラーとなった「共産主義黒書」という書物がある。私は、それを読んだことはなく、また歴史学界において、それがどう評価されているのかについても全く知識はない。
したがって、政治哲学者である岩田温氏の著書「逆説の政治哲学~正義が人を殺すとき」からデータを引用させていただくだけなのであるが、それによると、共産主義黒書の著者であるフランスの歴史学者6人らが調査した結果、共産主義の名のもとで殺害された人々の人数は下記のように推定されているのだという。
ソ連(ロシア):2000万人
中国:6500万人
ベトナム:100万人
北朝鮮:200万人
カンボジア:200万人
東欧:100万人
ラテンアメリカ:15万人
アフリカ:170万人
アフガニスタン:150万人
総計:約1億人
これが事実とすれば(おそらく事実無根ということはないであろう)、共産主義が殺した人々の数は、ナチスが殺したとされているユダヤ人の600万人に比べて、1桁以上も多いという驚くべき数字となる。
理想と正義の名のもとに始まった、共産主義革命が残した結末は、貧困層の救済という本来の目的を実現した良い面も確かにあったに違いない。しかしながら、全体としてみれば、経済の停滞による人々の生活の困窮化と、腐敗官僚主義の横行と、この恐るべき残虐非道の大規模殺戮を招いたという意味では、共産主義革命は人類の最大の失敗であったと言って良いのではないだろうか。
この事実に、何故、多くの知識人もマスコミも長い間、気がつかなかったのだろうか? また、ウスウス気がついた後でも、それに対して沈黙を守ってきたのは何故なのだろうか?というのが、シロウトである私の素朴な疑問なのである。
おそらく、共産主義の理想に共鳴した多くの人々およびマスコミは(知識人であれば多かれ少なかれその理想論には好意を持ったであろうと思う)、予想には全く反した共産主義の失敗は内心は認めても、公にはそれを表明はしにくい(あるいはあえて目をつぶった?)のであろうと想像される。
また、私のような科学技術の分野にいる人間にとっては、あまり実感はできてはいないのかもしれないが、この種の議論を始めると、政治的立場が左だとか右だとか、最初にレッテルが貼られてしまうようだ。そのために、事実に基づいた冷静な正論を述べても、感情的な攻撃や中傷を受けて、それへの対抗のために膨大なエネルギーと闘争心が必要となってしまうように見える。
私には、そういう議論をする気持ちは全く無いし、そもそも議論をする資格すらない門外漢のシロウトである。したがって、共産主義の歴史評価の論議は、とりあえずはこの辺で置いておくことにして、以下、私がこの文書において書きたかった本題に入りたいと思う。
ここであえて共産主義への批判を持ち出した理由は、独裁共産主義というものが、決してまだ20世紀の過去の遺物になっている訳ではないという点にある。
ソ連は、フルシチョフがスターリン批判を行い、ゴルバチョフが、ソ連帝国を解体するという英断を行った。その結果、ロシアは共産主義を捨てないまでも、国としては適正な規模に収まり、領土拡張の野望はとりあえず捨てて、経済発展に専念する体制を整えることに成功したと思われる。
問題は中国である。中国は、経済発展にはうまく成功したが、政治的には過去の反省を明確にすることはなく、人口13億人の中華共産帝国を解体する意思は全くないようだ。周辺諸国への支配体制も緩めることはなく、領土拡張の意思は増大している。そして、その根底においておそらくまだ生き続けているであろうと想像されるのが、毛沢東以来の独裁共産主義思想である。
毛沢東は、その昔、ソ連との関係が悪化した時、「ソ連と核戦争になって、1億や2億の人間が死んでも、まだ十分にわが人民は残っている。決して負けることはない。」と語ったと言われている。文化大革命で何千万人の無実の人が死んでも全く平気なわけである。
(ちなみに、日本人で、「人間が1千万人、2千万人死んでも、まだ十分に残っているから日本は大丈夫だ。」という発想を理解できる人が居るだろうか? 共産中国の思想の根底にはそういう発想が存在していたのだという恐ろしさは、一応は認識しておかねばならないことだと思うのである。)
本来ならば、中国もソ連を見習って、周辺諸国への支配をやめて、もっと小さなサイズの国を目指すべきだったのだろうと思う。それができなかった(できない事情があったと思うのだが)中国の将来には、何か、大きな不安と不気味さを感じざるを得ない。
北朝鮮も、独裁共産主義の原型を必死に維持しているが、国力の衰えは明らかであり、このまま国を維持して行けるとは思えない。この情報社会において、国民を騙し続けるのにも限界があり、早晩、他の共産主義の小国群と同じように変革をせざるを得ないことになるのは間違いないような気がする。
しかしながら、中国だけは全く先が見えない。13億人の国民をたばねて国を維持していこうと思えば、当然、内部の引き締めのために対外的にも強硬路線を取らざるを得ない。経済的に深く諸外国と結びついているので大丈夫だという楽観論もある。しかしながら、「いざとなれば政治は経済には絶対的に優先する」という、人類が経験してきた歴史事実も決して忘れてならないと思う。
中国の脅威が無くならない限りは、日本という国にとっては、米国との緊密なる安全保障関係を強化すること以外に、選ぶ道はないはずである。沖縄の基地問題も含めて、この点だけは、日本国民はしっかりと認識しておけねばいけないのではないかと思う。(良いとか悪いとかのレベルの問題ではない。生存のレベルの問題なのである。)
今や、中国の仮想敵国は明らかに米国となっている。その米国から核攻撃を受けた際への対応も中国軍部や首脳は当然考えているだろう。その極限の姿を念頭において、そこから逆算してきたところで、現実の政策が出てくるというのが、どうやら独裁共産国の思考パターンであるようだ。(北朝鮮が見事に包み隠さずその思考パターンを我々に明示してくれている。)
このような中国に隣接する日本は、米国の強力な支援なくしては、国家を維持していける保証は何も無いという現実を、我々はしっかりと見つめておく必要があることを、あらためて日本国民としては認識しておけねばならないと思うのである。
<補足>
なお、シロウトの門外漢の私としては、ことさらに中国脅威論を主張・宣伝することは全くの本意ではないし、楽観論を否定するつもりも全くない。国際政治の専門家があげるいくつかのシナリオの中でも、どちらかというと楽観論のほうが優勢のようにも見える。私としては、自分の心配が単なる杞憂に終わることを心から祈っているのみである。
ただ、確実に言えることは、中国の将来は予測がつかないということである。予測がつかない場合は、一応は最悪の事態を頭の隅には留めておけねばならないというのは、常識なのではないかとも思うのである。
その常識を、我々は、現在の自分たちのためにも、さらには我々の子孫のためにも、しっかりと持っておかねばならないということだけは、強調しておきたい思いである。
1月5日付けの日経新聞朝刊の風見鶏で紹介されていた、米国を代表する歴史家の故アーネースト・メイ氏の言葉を参考までに紹介しておきたい。(氏の見方は楽観論ではない方に属すると思う。)
「中国がどこに向かうかは、全く予測がつかない。中国自身にも分かっていないだろう。大きな混乱が起こるかもしれない。」
「第一次世界大戦の前の欧州でも経済の相互依存は大きかった。経済の結びつきが強いからと言って戦争を防げるとは限らない。」
「中国の台頭にゆれるアジアは、第一次世界大戦の前の欧州のようだ。」
「習近平主席がオバマ大統領に持ち掛けた米中の大国関係というのは、米中による太平洋分割論に等しい。オバマ政権は同意せず聞き流している。」
<蛇足>
以下は、浅学シロウトの単なる感想なので、あくまで蛇足として無視していただいてかまわないのであるが、共産主義になる前と後のロシアと中国のことについて、ちょっと感ずるところを付記してみたい。
ロシアは広大な平原からなる国土の安全保証のために領土の拡張を常に目指してきた。他国を侵略するというよりは、国境線を出来るだけロシアの中心部から遠ざけようとすることが、即、自国の安全につながるという認識があったと理解される。また不凍港を求めるという目的からも、国境線を広げることには熱心であった。その意味では本質的に膨張志向の国であったのではないかと思う。
このロシアに対して、共産主義は「人民の開放」という絶好の大義名分を与えてしまった。解放という錦の美旗を手に入れたソ連は、国境線を世界規模にまで広げようとした。これに大変な危機感を持ったのが、米国と西欧を中心とする自由主義陣営である。それを何とか阻止しようという戦いが、キューバ危機、ベトナム戦争などに代表される20世紀の冷戦の構造であったと思う。(ベトナム戦争は決して米国の侵略戦争ではなく、自由主義世界を守ろうとする防衛戦争だったのである。少なくとも米国首脳はそう信じて戦争を実行していた。)
その冷戦構造の中で、ゴルバチョフは、よくぞ、伝統的なロシアの膨張志向を捨ててロシアの国のサイズの縮小化に成功できたものと、心底、感心せざるを得ない。実に優れた歴史的な偉業であったと思う。(ロシア国内では国を破壊した者として彼に対しては根強い不満があるようだが。)
一方、中国の方は、中華思想が中心であり、外への拡大膨張思考は昔からあまりなかったように感ずる。チンギスハンのモンゴル帝国は例外であるが、彼らは漢民族ではなかった。それにモンゴルは占領した地域には大幅な自治権を与え実質的な支配はしなかった。
膨張はせずに外敵から身を守ろうという漢民族の思想が典型的に現れているのが、壮大なる万里の長城の建設なのではないかと私は理解している。そこに費やした膨大な費用とエネルギーに比べれば、全力をあげて周辺諸国を滅ぼしてしまった方が早いという考え方も、他の国であれば十分あり得たような気がする。
その中国に、膨張思想を与えたのが、共産主義の「民族解放」という概念であったのではないだろうか。解放という大義名分を掲げれば、他国を侵略して、膨大な自国の人民を移植しても許されるのだということに、中国は気が付いてしまった。朝鮮戦争への介入(これは失敗したが北朝鮮と中国の関係を認識する上では忘れてはならないと思う)と、東トルキスタン(新疆ウィグル地区)の支配が代表例だと思われる。チベットや内蒙古やへの圧政を正当化するのも類似な思想に基づいているものと思われる。
ソ連の例を見て、皆何となく、共産主義に対して楽観的になっている雰囲気があるようだが、上記の私見がもし正しいとするなら、その楽観論が中国にも通用するとは全く限らない。
とにかく私の心配が杞憂に終わってくれることを心から祈らずにはいられない。
<さらに蛇足>
昨年、12/26に行われた毛沢東生誕120年祭の様子が、先日のテレビ東京のワールドビジネスサテライトで報道されていた。現在の貧富の差の拡大に不満を持つ人々が、毛沢東時代を懐かしみ大勢の人々が集まり、それがどんどん増えているという報道であった。
かつて、大きな貧富の差が、共産主義が人々の共感を集めた一番の理由であったことを思うと、やはり、中国の将来への不安感は、ぬぐうことはできない。
ロシアではペレストロイカの情報公開で、スターリン時代の独裁共産主義の負の面を国民はよく知っている。しかしながら、中国では、毛沢東時代の負の側面はほとんど国民には知らされてはいないようだ。毛沢東への懐古傾向は現政権への批判にもつながり、さらなる政治混乱が起こる可能性もある。内部の政治混乱は、さらなる外部への強行姿勢につながる。悪い連鎖が起こらないことを心から祈りたい思いである。
<もっと蛇足>
なので、ここに大上段に書くのは、非常に躊躇してしまうのだが、どうも他の人や新聞があまりはっきりとは書いてくれないので、長年気になってしかたなかったことを、今あえてここにつぶやいてみようと思い立ったしだいである。
私が大学に入学した年は1969年。大学紛争真只中で、東大の安田講堂に過激派学生が立てこもり、これを排除するために機動隊と放水車が出動し、この騒ぎによって東大の入試が中止された年であった。私が入学した東工大は、学生たちによって大学はロックアウトされ、半年間授業は中止されていた。
その大学内においては、中核派、革マル派などと呼ばれる学生の集団が、口角泡を飛ばして議論をし、連日のように大規模な街頭デモを組織して行っていた。私は全くのノンポリ(non politics)学生で傍観していただけであるが、頭もよく善良な彼らを突き動かしている左翼思想(具体的にはマルクス・エンゲルスの唯物史観と階級闘争論)には、何か違和感を覚えていた。
その違和感を今になってあえて整理してみると、以前のブログ「経済学は科学か?」でちょっと触れたことでもあるが、2点あり、ひとつは科学とは言えない唯物史観が、あたかも科学のように再現性のある真実であると知的人々の間で信じられてしまったこと、もう1点は、階級闘争論が、搾取の構造を変えるためには人を殺してもかまわないという正義の名分を人々に与えてしまったところにあったと思う。
共産主義への共鳴は、貧富の差の大きい悲惨な現実に対する憤りと理想社会をめざす正義感がもとになっていたので、決して不誠実なものではなかった。その理想論は知的人々に支持され、平等社会の実現は大衆に支持されたわけである。
しかしながら、理想というものは時として現実を無視し、正義というものは時として無実の人々を断罪する。
人々の純粋な期待とはうらはらに、理想と正義の名のもとに、現実の世界ではどれだけの悲惨なる残虐行為が行われていたかを示す歴史資料として、1997年にフランスで発行され欧州ではベストセラーとなった「共産主義黒書」という書物がある。私は、それを読んだことはなく、また歴史学界において、それがどう評価されているのかについても全く知識はない。
したがって、政治哲学者である岩田温氏の著書「逆説の政治哲学~正義が人を殺すとき」からデータを引用させていただくだけなのであるが、それによると、共産主義黒書の著者であるフランスの歴史学者6人らが調査した結果、共産主義の名のもとで殺害された人々の人数は下記のように推定されているのだという。
ソ連(ロシア):2000万人
中国:6500万人
ベトナム:100万人
北朝鮮:200万人
カンボジア:200万人
東欧:100万人
ラテンアメリカ:15万人
アフリカ:170万人
アフガニスタン:150万人
総計:約1億人
これが事実とすれば(おそらく事実無根ということはないであろう)、共産主義が殺した人々の数は、ナチスが殺したとされているユダヤ人の600万人に比べて、1桁以上も多いという驚くべき数字となる。
理想と正義の名のもとに始まった、共産主義革命が残した結末は、貧困層の救済という本来の目的を実現した良い面も確かにあったに違いない。しかしながら、全体としてみれば、経済の停滞による人々の生活の困窮化と、腐敗官僚主義の横行と、この恐るべき残虐非道の大規模殺戮を招いたという意味では、共産主義革命は人類の最大の失敗であったと言って良いのではないだろうか。
この事実に、何故、多くの知識人もマスコミも長い間、気がつかなかったのだろうか? また、ウスウス気がついた後でも、それに対して沈黙を守ってきたのは何故なのだろうか?というのが、シロウトである私の素朴な疑問なのである。
おそらく、共産主義の理想に共鳴した多くの人々およびマスコミは(知識人であれば多かれ少なかれその理想論には好意を持ったであろうと思う)、予想には全く反した共産主義の失敗は内心は認めても、公にはそれを表明はしにくい(あるいはあえて目をつぶった?)のであろうと想像される。
また、私のような科学技術の分野にいる人間にとっては、あまり実感はできてはいないのかもしれないが、この種の議論を始めると、政治的立場が左だとか右だとか、最初にレッテルが貼られてしまうようだ。そのために、事実に基づいた冷静な正論を述べても、感情的な攻撃や中傷を受けて、それへの対抗のために膨大なエネルギーと闘争心が必要となってしまうように見える。
私には、そういう議論をする気持ちは全く無いし、そもそも議論をする資格すらない門外漢のシロウトである。したがって、共産主義の歴史評価の論議は、とりあえずはこの辺で置いておくことにして、以下、私がこの文書において書きたかった本題に入りたいと思う。
ここであえて共産主義への批判を持ち出した理由は、独裁共産主義というものが、決してまだ20世紀の過去の遺物になっている訳ではないという点にある。
ソ連は、フルシチョフがスターリン批判を行い、ゴルバチョフが、ソ連帝国を解体するという英断を行った。その結果、ロシアは共産主義を捨てないまでも、国としては適正な規模に収まり、領土拡張の野望はとりあえず捨てて、経済発展に専念する体制を整えることに成功したと思われる。
問題は中国である。中国は、経済発展にはうまく成功したが、政治的には過去の反省を明確にすることはなく、人口13億人の中華共産帝国を解体する意思は全くないようだ。周辺諸国への支配体制も緩めることはなく、領土拡張の意思は増大している。そして、その根底においておそらくまだ生き続けているであろうと想像されるのが、毛沢東以来の独裁共産主義思想である。
毛沢東は、その昔、ソ連との関係が悪化した時、「ソ連と核戦争になって、1億や2億の人間が死んでも、まだ十分にわが人民は残っている。決して負けることはない。」と語ったと言われている。文化大革命で何千万人の無実の人が死んでも全く平気なわけである。
(ちなみに、日本人で、「人間が1千万人、2千万人死んでも、まだ十分に残っているから日本は大丈夫だ。」という発想を理解できる人が居るだろうか? 共産中国の思想の根底にはそういう発想が存在していたのだという恐ろしさは、一応は認識しておかねばならないことだと思うのである。)
本来ならば、中国もソ連を見習って、周辺諸国への支配をやめて、もっと小さなサイズの国を目指すべきだったのだろうと思う。それができなかった(できない事情があったと思うのだが)中国の将来には、何か、大きな不安と不気味さを感じざるを得ない。
北朝鮮も、独裁共産主義の原型を必死に維持しているが、国力の衰えは明らかであり、このまま国を維持して行けるとは思えない。この情報社会において、国民を騙し続けるのにも限界があり、早晩、他の共産主義の小国群と同じように変革をせざるを得ないことになるのは間違いないような気がする。
しかしながら、中国だけは全く先が見えない。13億人の国民をたばねて国を維持していこうと思えば、当然、内部の引き締めのために対外的にも強硬路線を取らざるを得ない。経済的に深く諸外国と結びついているので大丈夫だという楽観論もある。しかしながら、「いざとなれば政治は経済には絶対的に優先する」という、人類が経験してきた歴史事実も決して忘れてならないと思う。
中国の脅威が無くならない限りは、日本という国にとっては、米国との緊密なる安全保障関係を強化すること以外に、選ぶ道はないはずである。沖縄の基地問題も含めて、この点だけは、日本国民はしっかりと認識しておけねばいけないのではないかと思う。(良いとか悪いとかのレベルの問題ではない。生存のレベルの問題なのである。)
今や、中国の仮想敵国は明らかに米国となっている。その米国から核攻撃を受けた際への対応も中国軍部や首脳は当然考えているだろう。その極限の姿を念頭において、そこから逆算してきたところで、現実の政策が出てくるというのが、どうやら独裁共産国の思考パターンであるようだ。(北朝鮮が見事に包み隠さずその思考パターンを我々に明示してくれている。)
このような中国に隣接する日本は、米国の強力な支援なくしては、国家を維持していける保証は何も無いという現実を、我々はしっかりと見つめておく必要があることを、あらためて日本国民としては認識しておけねばならないと思うのである。
<補足>
なお、シロウトの門外漢の私としては、ことさらに中国脅威論を主張・宣伝することは全くの本意ではないし、楽観論を否定するつもりも全くない。国際政治の専門家があげるいくつかのシナリオの中でも、どちらかというと楽観論のほうが優勢のようにも見える。私としては、自分の心配が単なる杞憂に終わることを心から祈っているのみである。
ただ、確実に言えることは、中国の将来は予測がつかないということである。予測がつかない場合は、一応は最悪の事態を頭の隅には留めておけねばならないというのは、常識なのではないかとも思うのである。
その常識を、我々は、現在の自分たちのためにも、さらには我々の子孫のためにも、しっかりと持っておかねばならないということだけは、強調しておきたい思いである。
1月5日付けの日経新聞朝刊の風見鶏で紹介されていた、米国を代表する歴史家の故アーネースト・メイ氏の言葉を参考までに紹介しておきたい。(氏の見方は楽観論ではない方に属すると思う。)
「中国がどこに向かうかは、全く予測がつかない。中国自身にも分かっていないだろう。大きな混乱が起こるかもしれない。」
「第一次世界大戦の前の欧州でも経済の相互依存は大きかった。経済の結びつきが強いからと言って戦争を防げるとは限らない。」
「中国の台頭にゆれるアジアは、第一次世界大戦の前の欧州のようだ。」
「習近平主席がオバマ大統領に持ち掛けた米中の大国関係というのは、米中による太平洋分割論に等しい。オバマ政権は同意せず聞き流している。」
<蛇足>
以下は、浅学シロウトの単なる感想なので、あくまで蛇足として無視していただいてかまわないのであるが、共産主義になる前と後のロシアと中国のことについて、ちょっと感ずるところを付記してみたい。
ロシアは広大な平原からなる国土の安全保証のために領土の拡張を常に目指してきた。他国を侵略するというよりは、国境線を出来るだけロシアの中心部から遠ざけようとすることが、即、自国の安全につながるという認識があったと理解される。また不凍港を求めるという目的からも、国境線を広げることには熱心であった。その意味では本質的に膨張志向の国であったのではないかと思う。
このロシアに対して、共産主義は「人民の開放」という絶好の大義名分を与えてしまった。解放という錦の美旗を手に入れたソ連は、国境線を世界規模にまで広げようとした。これに大変な危機感を持ったのが、米国と西欧を中心とする自由主義陣営である。それを何とか阻止しようという戦いが、キューバ危機、ベトナム戦争などに代表される20世紀の冷戦の構造であったと思う。(ベトナム戦争は決して米国の侵略戦争ではなく、自由主義世界を守ろうとする防衛戦争だったのである。少なくとも米国首脳はそう信じて戦争を実行していた。)
その冷戦構造の中で、ゴルバチョフは、よくぞ、伝統的なロシアの膨張志向を捨ててロシアの国のサイズの縮小化に成功できたものと、心底、感心せざるを得ない。実に優れた歴史的な偉業であったと思う。(ロシア国内では国を破壊した者として彼に対しては根強い不満があるようだが。)
一方、中国の方は、中華思想が中心であり、外への拡大膨張思考は昔からあまりなかったように感ずる。チンギスハンのモンゴル帝国は例外であるが、彼らは漢民族ではなかった。それにモンゴルは占領した地域には大幅な自治権を与え実質的な支配はしなかった。
膨張はせずに外敵から身を守ろうという漢民族の思想が典型的に現れているのが、壮大なる万里の長城の建設なのではないかと私は理解している。そこに費やした膨大な費用とエネルギーに比べれば、全力をあげて周辺諸国を滅ぼしてしまった方が早いという考え方も、他の国であれば十分あり得たような気がする。
その中国に、膨張思想を与えたのが、共産主義の「民族解放」という概念であったのではないだろうか。解放という大義名分を掲げれば、他国を侵略して、膨大な自国の人民を移植しても許されるのだということに、中国は気が付いてしまった。朝鮮戦争への介入(これは失敗したが北朝鮮と中国の関係を認識する上では忘れてはならないと思う)と、東トルキスタン(新疆ウィグル地区)の支配が代表例だと思われる。チベットや内蒙古やへの圧政を正当化するのも類似な思想に基づいているものと思われる。
さすがに、中国も今となっては「解放」という概念は時代錯誤であり非現実的であることは十分認識していると思う。ただし、一旦身につけてしまった膨張志向は簡単には捨てられない。
しかも、ロシアと違って占領区に大量の漢民族の入植を許してしまったので、国土分割という手段を後戻りして取ることも出来ない。13億人の国民を、養って行くには膨張志向は捨てようにも捨てられないというのが現実なのではないのだろうか。
そこに、中国自身の抱える巨大な矛盾があるような気がする。私見ではあるが、漢民族には、もともとは膨張思考は潜在的にはなかったのではないだろか。そういう意味では、共産主義は中国自身にとっても実に罪なものであったと言えるのではないだろうか。
今の中国は、経済的に大成功を収めて、米国に次ぐ世界の大国になったという自信と、国内に抱える大きな矛盾と、そして曲がりなりにも、大国を維持している共産主義体制との折り合いの中で、これから、どうやって国家を運営して行くのか迷っているのではないだろうか。アーネスト・メイ氏の言葉のように、中国自身にも、よく分かっていない可能性は大きい。これから、どう進むかは、国内でも意思は統一できてはおらず、模索を続けているというのが、実態なのではないかという気がする。
すでに膨大なる国力を持ってしまった中国が大きな矛盾を抱えて、その行く先が見えないというのは、実は日本にとっては、非常に不安で心配なことであり、決して楽観視は出来ないことなのではないのだろうか。
しかも、ロシアと違って占領区に大量の漢民族の入植を許してしまったので、国土分割という手段を後戻りして取ることも出来ない。13億人の国民を、養って行くには膨張志向は捨てようにも捨てられないというのが現実なのではないのだろうか。
そこに、中国自身の抱える巨大な矛盾があるような気がする。私見ではあるが、漢民族には、もともとは膨張思考は潜在的にはなかったのではないだろか。そういう意味では、共産主義は中国自身にとっても実に罪なものであったと言えるのではないだろうか。
今の中国は、経済的に大成功を収めて、米国に次ぐ世界の大国になったという自信と、国内に抱える大きな矛盾と、そして曲がりなりにも、大国を維持している共産主義体制との折り合いの中で、これから、どうやって国家を運営して行くのか迷っているのではないだろうか。アーネスト・メイ氏の言葉のように、中国自身にも、よく分かっていない可能性は大きい。これから、どう進むかは、国内でも意思は統一できてはおらず、模索を続けているというのが、実態なのではないかという気がする。
すでに膨大なる国力を持ってしまった中国が大きな矛盾を抱えて、その行く先が見えないというのは、実は日本にとっては、非常に不安で心配なことであり、決して楽観視は出来ないことなのではないのだろうか。
ソ連の例を見て、皆何となく、共産主義に対して楽観的になっている雰囲気があるようだが、上記の私見がもし正しいとするなら、その楽観論が中国にも通用するとは全く限らない。
マスコミは、韓国と中国をほぼ同列に扱って報道するが、この2国の日本に対する影響力の大きさには、本質的な違いがあり、その影響力にも格段の差があることは明らかである。中国に対する、他人事のような報道姿勢(単に中国の報道官の発表を流すだけという)は非常に気になる。尖閣列島問題になると急に熱心に報道に力が入るようであるが、その根底にあるものを、マスコミはもう少しまじめに自分の力で調査取材をする努力をしてくれることを願う。
不思議なことに、そこそこの冷静なる取材調査をして報道してくれるのは、政治記事(政治記者?)ではではなく経済記事(経済記者?)であることが多いようだ。中国問題の本質(政治的な)に関しては、一般紙よりは経済紙や経済雑誌から学ぶことのほうがずっと多いような気が私はしている。
とにかく私の心配が杞憂に終わってくれることを心から祈らずにはいられない。
<さらに蛇足>
昨年、12/26に行われた毛沢東生誕120年祭の様子が、先日のテレビ東京のワールドビジネスサテライトで報道されていた。現在の貧富の差の拡大に不満を持つ人々が、毛沢東時代を懐かしみ大勢の人々が集まり、それがどんどん増えているという報道であった。
かつて、大きな貧富の差が、共産主義が人々の共感を集めた一番の理由であったことを思うと、やはり、中国の将来への不安感は、ぬぐうことはできない。
ロシアではペレストロイカの情報公開で、スターリン時代の独裁共産主義の負の面を国民はよく知っている。しかしながら、中国では、毛沢東時代の負の側面はほとんど国民には知らされてはいないようだ。毛沢東への懐古傾向は現政権への批判にもつながり、さらなる政治混乱が起こる可能性もある。内部の政治混乱は、さらなる外部への強行姿勢につながる。悪い連鎖が起こらないことを心から祈りたい思いである。
<もっと蛇足>
人間でも、自分の考えることは、他人も同じように考えているに違いないと邪推する人は結構いる。中国が、日本が戦争責任を反省しないとさかんに非難するのは、自分が過去の悪行を反省できずに、失敗したと実は内心は自覚しているので、反省してないように見える日本に対して余計な心配をして神経質になっているところも、ひょっとしてあるのだろうか。それとも、単に反日教育を散々してしまったため引っ込みがつかないということだけかもしれないし、意図的にナンクセをつけているだけかもしれないし、何だかよく分からない。(日中戦争のおかげで、一番助かったのは、蒋介石による殲滅を免れた毛沢東の中国共産党だったはずである。歴史を見れば、全く愚かな日中戦争を始めてしまった日本は、中国共産党にとっては、大恩人と言ってもいいくらいのはずなのに・・・)
ちなみに、靖国参拝を強く非難しているのは、中国と、近親憎悪的な感情のある韓国だけである。近隣アジア諸国にも被害を与えたと強引に主張し宣伝しているのは、この2国だけであるようだ。(現実問題として、多くの東南アジアの人々は西欧の植民地支配からの独立の手助けとなった日本の奮戦には、内心はむしろ喝采しているくらいなのではないだろうか?フィリピンは別かもしれないが。)
平均的な日本人の感覚からすれば、「大した話でもないのに(こういう表現はこの問題を真剣に考えている方々には申し訳けないのですが)、何でそんなに大げさに、この両国に騒わがれなくてはいけないんだっけ? 」というのが、ごく普通の感じ方なのではないだろうか。(正直、靖国問題とは何なのか、未だに私にはよく分からない。分からないことは、ちゃんと調べて自分の意見が固まってから書くべきだったのかもしれないが・・・)
by sakuraimac
| 2014-01-13 00:00
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