2014年 03月 29日
父の甲子園 |
父が、3/12に静かに息を引き取った。89歳の老衰で、母に手を握られながらの静かな死であった。予定されていた死であり家族葬の事前計画も立てていたので、葬儀はスムーズに進んだが、それでも、葬儀というのは案外と気を使う大変なものだということを、喪主を務めてみて改めて感じた。
父の自慢のひとつは、甲子園の高校野球に北海道代表として出場したことである。戦争前のことだったので、高校ではなく、札幌第一中学校という5年制の中学校であった。
父が大事に持っていた記念ボールがあり、そこには、「WINNING BALL 対光星戦 17A-1 昭和16年7月15日」と記されている。おそらく、北海道代表に決まったときの記念ボールだったのに違いない。
最年少でライトを守っており、盗塁が得意で長打者としても活躍していたと聞いた。次の年も甲子園出場が決まっていたそうであるが、戦争が始まり、甲子園大会は中止されてしまった。父もさぞかし残念であったろうと思う。
柩に一緒に入れようかと母と話をしていたら、従兄弟が「とんでもない、大事に取っておくべきだ」と言うので私が保管することとした。さらに、別の従兄弟が、今は札幌南高校となっているが、南高校は平成になってからも一度甲子園に出たことがある。きっと展示ルームがあるはずだから、寄贈したら喜ばれるのではないかと言う。
そこで、札幌南高校へ、問い合わせのメールを出してみた。そうしたらすぐに返事が来て百周年記念館を建てたので、当時の資料とともにぜひ寄贈してほしいとのことであった。
柩とともに灰になるところだった記念ボールが、2人の従兄弟の機転のおかげで、母校に展示されることとなった。きっと父も喜んでいるに違いない。
若いころは、博物館などというものには全く興味がなかったのだが、自分も年を取って、人の死に立ち合うことが多くなってからは、故人が生きた証しとしての、記念物とか本というもののへこだわりを持つようになった。
後世に名を残すような天才でもない限りは、死んだら何も残らなくてもよいのだと、今までは単純に思い込んでいたのだが、それは違うのだと気がつくようになった。目立たない人生を送ってきた平凡な人々にも、それぞれに何か生きた証しとして後世に残せるようなものがきっとあるに違いない。
父も、母校の展示ルームで、生きた証しを1個のボールとしてずっと残し続けることができることとなった。よい供養をしてあげることができて本当によかったと思っている。

父の自慢のひとつは、甲子園の高校野球に北海道代表として出場したことである。戦争前のことだったので、高校ではなく、札幌第一中学校という5年制の中学校であった。
父が大事に持っていた記念ボールがあり、そこには、「WINNING BALL 対光星戦 17A-1 昭和16年7月15日」と記されている。おそらく、北海道代表に決まったときの記念ボールだったのに違いない。
最年少でライトを守っており、盗塁が得意で長打者としても活躍していたと聞いた。次の年も甲子園出場が決まっていたそうであるが、戦争が始まり、甲子園大会は中止されてしまった。父もさぞかし残念であったろうと思う。
柩に一緒に入れようかと母と話をしていたら、従兄弟が「とんでもない、大事に取っておくべきだ」と言うので私が保管することとした。さらに、別の従兄弟が、今は札幌南高校となっているが、南高校は平成になってからも一度甲子園に出たことがある。きっと展示ルームがあるはずだから、寄贈したら喜ばれるのではないかと言う。
そこで、札幌南高校へ、問い合わせのメールを出してみた。そうしたらすぐに返事が来て百周年記念館を建てたので、当時の資料とともにぜひ寄贈してほしいとのことであった。
柩とともに灰になるところだった記念ボールが、2人の従兄弟の機転のおかげで、母校に展示されることとなった。きっと父も喜んでいるに違いない。
若いころは、博物館などというものには全く興味がなかったのだが、自分も年を取って、人の死に立ち合うことが多くなってからは、故人が生きた証しとしての、記念物とか本というもののへこだわりを持つようになった。
後世に名を残すような天才でもない限りは、死んだら何も残らなくてもよいのだと、今までは単純に思い込んでいたのだが、それは違うのだと気がつくようになった。目立たない人生を送ってきた平凡な人々にも、それぞれに何か生きた証しとして後世に残せるようなものがきっとあるに違いない。
父も、母校の展示ルームで、生きた証しを1個のボールとしてずっと残し続けることができることとなった。よい供養をしてあげることができて本当によかったと思っている。

by sakuraimac
| 2014-03-29 00:47
| 人生
|
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