2014年 12月 19日
NIH (Not Invented Here)症候群 |
情報処理学会誌に、ちょっと目にとまった記事が載っていた。
NIH(Not Invented Here)症候群がソフトウェアの再利用化を阻んでいる要因の一つになっているというのである。「人は他人が作ったものを信用しない、自分で同じものを作りたがる、細部の詳細が分からない、ここの実装方法が気に食わない、効率が悪いなど、様々な理由を並べて既存部品は使わず、自分で同じものを作ろうとする。」という意味で言われているそうだ。
ソフト開発に携わった経験のある方なら、誰もが思わずうなずいてしまう言葉でもあると思う。
ただし、私がNIH症候群という言葉に感じたのは、もう少し別のことであった。
かつては、日本の企業は海外の技術や発明を学び、それを取り入れて量産化して成長してきた。ところが、経済が成長し、自動車や半導体や家電製品が世界の産業界を席巻するようになった頃から、人マネではない独自の技術開発をという意識が、特に大企業を中心に強くなったと思う。
独自の技術を持つことは重要である。青色LEDの開発で日亜化学の発展に大きく貢献した中村修二氏や、NANDフラッシュメモリの開発で東芝の半導体事業を世界規模に維持し続けるのに大きく貢献をした舛岡富士雄氏などの例は、特許裁判を通じて一般にも広く知られている。中小の優良企業も独自技術で世界的シェアを占めているところは少なくない。
しかしながら、そうした例というのは、天才的な才能と強い意志を持った人が、自由な環境に置かれた場合に限られるのではないだろうかとも感ずるのである。
私見ではあるが、研究開発の分野において、こうした独創的な仕事ができる人材というのは、従事する人々の10%以下ではないかという気がしている。もし、残りの90%の人に、そのような独自の研究開発を求めたとしたら、それは無理なことではないのだろうか。無理なことを期待するとしたら、それは広い意味での組織的なNIH症候群に陥っているとも言えるのではないかと、密かに感じてしまうのである。
何故そのような思いを持つように至ったかと言うと、私が大企業の開発部門から大学に移ってきたという経歴とも無縁ではない。以下、正直すぎて若干躊躇してしまうのであるが、あえて恥をしのんで自分の体験談を書いてみたい。
私が大学に移ってまず直面したのは、十数人も受け持たされる学生の研究テーマを見つけなくてはならないという、さしせまった大仕事であった。自分でoriginality のある研究テーマなどを考え出す能力もないし経験も時間もない。
仕方ないので、色々な専門家の講習会に行き初心者に帰って勉強をした。初学者にとって、見識のあるその道の専門家の話をじかに聞くのは、学ぶのには最も効率がよい。(講習会や講演会というのは、講師は意外と熱を入れている人が多く、論文には現れないような本音やヒントやPhilosophyを正直に語ってくれる場合も少なくない。)
ある程度、この方面が面白そうだと目星がついたら、今度は学生に振り分けて、徹底的に先人の後追いをさせる。最近は、ネットが発達しているので、少なからぬ研究者達は、成功したシステムやアルゴリズムのプログラムは、自分のサイトで親切にも公開していてくれる。
NIH観念を完全に捨て去った私は、学生に、理解できなくともいいから、とにかくプログラムをダウンロードして、動かしてみろとアドバイスをする。Copy & Paste 文化に抵抗の無い学生はそういうことは得意なのでごく素直に従う。
その結果、私の研究室は見事に、Not Invented Here (NIH)な要素で満ち溢れることとなった。大学の研究室がそれでよいのかとお叱りを受けそうでもある。しかしながら不思議なことにそれでも研究は十分に成り立っている。
様々なNIH要素があると、それらを工夫して組み合わせることによって、思わぬ効果が出ることがある。(ちょっと言い訳をすると、効果的な組み合わせはモノマネでもなく改良でもなく、“発見”である。)
その結果、論文も書けるし、論文が書けると外部研究資金も獲得でき、うまくすると企業との共同研究にも繋がる。
という訳で、他人の褌を借りるような形で、研究活動は結構うまく回ってしまっているのが私の研究室の現実である。(研究活動としては、2流3流かもしれないが、私にはそれ以外に取る道は無かったので仕方のないことでもある。ただし、また言い訳をすると、2流3流でもそれなりの活動をするためには、世の中のニーズと実現する技術の本質的な"スジの良さ”というものを正確に見定める眼が必須である。これには経験と年の功と技術センスが必要なのだ。)
私は、独創的(Original)ということと、創造的(Creative)ということは、意識的に区別して考えている。自分に独創的なことを考える能力はないとハナから諦めているので、創造的なほうに賭けている。
そのときいつも頭に浮かべているのが、Steve Jobs の「Connecting Dots」という言葉である。彼の創造性は、NIH な 要素(Dots) をうまくConnect した結果である。よく知られているように彼自身が発明した技術要素はほとんどない。にもかかわらず、あれだけの偉業を成し遂げたのは、ひとえに彼の頭の中にあるDotsの幅広さと、それをConnect する能力が天才的であったからなのだろうと思う。
などというようなことを考えながら、ネットを検索していたら、NIH症候群という言葉は、すでに二十年以上前に、ドラッカーが述べていて、ビジネス分野では有名な概念となっているということを発見した。ドラッカーは、当時の米国の有力企業に対してNIH症候群に陥っているのではないかとの警鐘を鳴らしている。
その話を知って、ドラッカーの述べたニュアンスとは若干異なるかもしれないが、上述した私の感想もあながち的をはずしたものではなかったのではないかと思った。
私自身には、中村氏のようなoriginality も、Steve Jobs氏のようなcreativity も、ドラッカー氏のような見識も全く無いので、えらそうなことはとても言える立場にはないのだが、元気の出ない日本の大企業は、研究者個人としても会社組織としても、NIH症候群に陥っているようなところは無いかと、ちょっと振り返ってみるのも有用なのではないかと、つぶやいてみたくなるこの頃でもある。
<補足>
誤解を招くといけないので、補足をしておくと、一流で独創的な研究が最重要であることは間違いない。国家あるいは企業でそれを求めていくことは至極当然のことである。ただし、それに耐えうる有能な人材はごく少数であるし幸運にも恵まれる必要もある。そうではない大多数の普通の人材(私のような)には独創的ではなくとも役に立てばよいという、人間の適正に応じたフレキシブルな運用が必要なのではないか(独創性を求めるケースとそうでないケースには異なる対応が必要なのではないか)、というのが、本稿で私が言いたかった趣旨である。
(一流で独創的な研究を進めるにはどうするかということは、多くの人が述べており私などの出る幕はないので、大学人としては少し後ろ向きで居直っている発言であったかもしれませんが、凡人のつぶやきとしてご容赦のほどを・・・)
NIH(Not Invented Here)症候群がソフトウェアの再利用化を阻んでいる要因の一つになっているというのである。「人は他人が作ったものを信用しない、自分で同じものを作りたがる、細部の詳細が分からない、ここの実装方法が気に食わない、効率が悪いなど、様々な理由を並べて既存部品は使わず、自分で同じものを作ろうとする。」という意味で言われているそうだ。
ソフト開発に携わった経験のある方なら、誰もが思わずうなずいてしまう言葉でもあると思う。
ただし、私がNIH症候群という言葉に感じたのは、もう少し別のことであった。
かつては、日本の企業は海外の技術や発明を学び、それを取り入れて量産化して成長してきた。ところが、経済が成長し、自動車や半導体や家電製品が世界の産業界を席巻するようになった頃から、人マネではない独自の技術開発をという意識が、特に大企業を中心に強くなったと思う。
独自の技術を持つことは重要である。青色LEDの開発で日亜化学の発展に大きく貢献した中村修二氏や、NANDフラッシュメモリの開発で東芝の半導体事業を世界規模に維持し続けるのに大きく貢献をした舛岡富士雄氏などの例は、特許裁判を通じて一般にも広く知られている。中小の優良企業も独自技術で世界的シェアを占めているところは少なくない。
しかしながら、そうした例というのは、天才的な才能と強い意志を持った人が、自由な環境に置かれた場合に限られるのではないだろうかとも感ずるのである。
私見ではあるが、研究開発の分野において、こうした独創的な仕事ができる人材というのは、従事する人々の10%以下ではないかという気がしている。もし、残りの90%の人に、そのような独自の研究開発を求めたとしたら、それは無理なことではないのだろうか。無理なことを期待するとしたら、それは広い意味での組織的なNIH症候群に陥っているとも言えるのではないかと、密かに感じてしまうのである。
何故そのような思いを持つように至ったかと言うと、私が大企業の開発部門から大学に移ってきたという経歴とも無縁ではない。以下、正直すぎて若干躊躇してしまうのであるが、あえて恥をしのんで自分の体験談を書いてみたい。
私が大学に移ってまず直面したのは、十数人も受け持たされる学生の研究テーマを見つけなくてはならないという、さしせまった大仕事であった。自分でoriginality のある研究テーマなどを考え出す能力もないし経験も時間もない。
仕方ないので、色々な専門家の講習会に行き初心者に帰って勉強をした。初学者にとって、見識のあるその道の専門家の話をじかに聞くのは、学ぶのには最も効率がよい。(講習会や講演会というのは、講師は意外と熱を入れている人が多く、論文には現れないような本音やヒントやPhilosophyを正直に語ってくれる場合も少なくない。)
ある程度、この方面が面白そうだと目星がついたら、今度は学生に振り分けて、徹底的に先人の後追いをさせる。最近は、ネットが発達しているので、少なからぬ研究者達は、成功したシステムやアルゴリズムのプログラムは、自分のサイトで親切にも公開していてくれる。
NIH観念を完全に捨て去った私は、学生に、理解できなくともいいから、とにかくプログラムをダウンロードして、動かしてみろとアドバイスをする。Copy & Paste 文化に抵抗の無い学生はそういうことは得意なのでごく素直に従う。
その結果、私の研究室は見事に、Not Invented Here (NIH)な要素で満ち溢れることとなった。大学の研究室がそれでよいのかとお叱りを受けそうでもある。しかしながら不思議なことにそれでも研究は十分に成り立っている。
様々なNIH要素があると、それらを工夫して組み合わせることによって、思わぬ効果が出ることがある。(ちょっと言い訳をすると、効果的な組み合わせはモノマネでもなく改良でもなく、“発見”である。)
その結果、論文も書けるし、論文が書けると外部研究資金も獲得でき、うまくすると企業との共同研究にも繋がる。
という訳で、他人の褌を借りるような形で、研究活動は結構うまく回ってしまっているのが私の研究室の現実である。(研究活動としては、2流3流かもしれないが、私にはそれ以外に取る道は無かったので仕方のないことでもある。ただし、また言い訳をすると、2流3流でもそれなりの活動をするためには、世の中のニーズと実現する技術の本質的な"スジの良さ”というものを正確に見定める眼が必須である。これには経験と年の功と技術センスが必要なのだ。)
私は、独創的(Original)ということと、創造的(Creative)ということは、意識的に区別して考えている。自分に独創的なことを考える能力はないとハナから諦めているので、創造的なほうに賭けている。
そのときいつも頭に浮かべているのが、Steve Jobs の「Connecting Dots」という言葉である。彼の創造性は、NIH な 要素(Dots) をうまくConnect した結果である。よく知られているように彼自身が発明した技術要素はほとんどない。にもかかわらず、あれだけの偉業を成し遂げたのは、ひとえに彼の頭の中にあるDotsの幅広さと、それをConnect する能力が天才的であったからなのだろうと思う。
などというようなことを考えながら、ネットを検索していたら、NIH症候群という言葉は、すでに二十年以上前に、ドラッカーが述べていて、ビジネス分野では有名な概念となっているということを発見した。ドラッカーは、当時の米国の有力企業に対してNIH症候群に陥っているのではないかとの警鐘を鳴らしている。
その話を知って、ドラッカーの述べたニュアンスとは若干異なるかもしれないが、上述した私の感想もあながち的をはずしたものではなかったのではないかと思った。
私自身には、中村氏のようなoriginality も、Steve Jobs氏のようなcreativity も、ドラッカー氏のような見識も全く無いので、えらそうなことはとても言える立場にはないのだが、元気の出ない日本の大企業は、研究者個人としても会社組織としても、NIH症候群に陥っているようなところは無いかと、ちょっと振り返ってみるのも有用なのではないかと、つぶやいてみたくなるこの頃でもある。
<補足>
誤解を招くといけないので、補足をしておくと、一流で独創的な研究が最重要であることは間違いない。国家あるいは企業でそれを求めていくことは至極当然のことである。ただし、それに耐えうる有能な人材はごく少数であるし幸運にも恵まれる必要もある。そうではない大多数の普通の人材(私のような)には独創的ではなくとも役に立てばよいという、人間の適正に応じたフレキシブルな運用が必要なのではないか(独創性を求めるケースとそうでないケースには異なる対応が必要なのではないか)、というのが、本稿で私が言いたかった趣旨である。
(一流で独創的な研究を進めるにはどうするかということは、多くの人が述べており私などの出る幕はないので、大学人としては少し後ろ向きで居直っている発言であったかもしれませんが、凡人のつぶやきとしてご容赦のほどを・・・)
by sakuraimac
| 2014-12-19 16:08
| 仕事
|
Comments(2)
「模倣と創造」は版画家・小説家・陶芸家として著名だった池田満寿夫氏の芸術論で、ピカソは「人真似の天才」であったエピソードが記されていた記憶がある。この点においては、東大名誉教授の高階秀爾先生も「ピカソ剽窃の論理」も同じ指摘があり、「天才」の名をほしいままにしたピカソこそ「模倣の天才」と評価されている。ビジネスコンサルで元トリンプ社長の吉越氏もダスキン代理店社長の小山氏も「真似できる良いものがあれば真似をすればよい(その上で自社の状況に合わせてアジャストする)」と言っている。20代に数年間、技術者向けの創造性開発教育を事務屋の私が担当していた時があり、内容のベースは中山正和氏の「NM法」でした。単純に言えば「異質のものの組み合わせ」で新たな技術を生み出すためのシステム思考です。"未来は過去の中にある"とは至言であり、方法論としてのアプローチは過去や先人の実績を学び、異質のアイデアを組み合わせて新たな発想を得て、実験を繰り返し、客観的で再現性のある理論・実証結果を、私達は”独創"と呼んでいるのではないかと思う。「芸術創造も科学技術も、創造のプロセスでは類似点が多い」と事務屋の私は今回の論考を読み、そう思った。「独創」と「創造」の用語の相違は、”"過去や既存の事実"からの乖離の大きさを言い、本質は同種ではないかと思うが、如何でしょうか。
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sakuraimac at 2014-12-20 22:49
jayjayさん、コメントありがとうございます。独創性と創造性の議論、かなり深いものがあります。あと創生などという言葉もありますし。それから、基礎研究、応用研究、製品開発などの分野の違い、大学や国立研究所と企業の違い、またjayjayさんの挙げた芸術と科学技術での差異もあるかと思います。とてもここで、まとめ切れるものではありませんが、刺激をいただいたので、また考えをまとめて、改めて書いてみたいと思います。