2015年 02月 04日
思いっきり雑談 |
ここ、2,3年、外部から有名人を講師として招いて、大学で講演をしてもらうという企画運営に携わってきた。普段からテレビに出ているような方々は、内容もさることながら、お話がすごく上手で、聴衆の心を掴む技術が素晴らしい。運営担当としてずっと色々な方々のお話を聞いてきたが、すごく学ぶことが多かった。
裏方をやっているうちに、自分でも講演をしてみたいなと思うようになった。たまたま、ある企業から、ご研究内容を若手エンジニアに紹介してくださいという、大変有り難い依頼を受けた。ついでに、雑談をしてもいいですかと聞いたら、ぜひと言われたので、どんなテーマがよいか考えはじめた。
技術以外のテーマを多数の人の前で話をするのは初めての経験である。また、普段の大学の授業でも、自分は人前では控えめな性格のせいか、正面を向いて雑談をすることはあまり無い。そこで、ふと、一度、自分の持ち授業の中で、1時間くらい時間を余らせて、学生を相手にして、「思いっきり雑談」と称して講演の練習をしてみようと思い立った。(実験台にされた学生達には迷惑だったかもしれないが。)
やってみたら、初経験にしては、案外と上手くできたような気がしたので、Facebookで披露したら、特に社会人から好評だった。(肝心の学生からの反応は得てないのでどう受け取られたかはよく分からないのだが。)Facebook ではすぐに流れて消えてしまうので、自分自身のメモのためにも、その内容をブログで残しておこうと思った。以下はほぼFacebookに載せたままの記録です。
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昨日は、担当の授業の最後の科目の最終日。ちょっと前から計画していた、「思いっきり雑談」をここで実験的に行うことをやってみた。1時間ばかり時間を余らせておいて、“これから全く授業とは関連ない話をしますので,すみませんが私の講演の練習にお付き合いください”と宣言して、以下の3つのテーマについて話をした。
1. 見るということとは?
2. 三角ゾーンは誰が埋めるか?
3. 創造性とは何か?
こういう話をアドリブで、しかも学生と対話しながら進めるのは自分にとって初めての経験であった。しかし、やってみると予想外に上手く出来た。学生の顔を一人一人よく見て反応をユックリ確かめながら、適宜クイズを出したり手を挙げさせたりして対話をするというのも、自分自身にとっては初めての体験で、とても楽しかった。時間もちょうど終礼のチャイムピッタリに終了。今まで、もっと早く気がついてやり始めていればよかったなあと思った。
最初は、まず自己紹介から始める。講演をする時は自分の素性をハッキリ説明することが重要だとかねがね感じている。この人は一体どういうバックボーンでこういう話をしているのかということは、聴衆としてはすごく興味が湧くものだ。(私の場合は、30年間東芝で働いていて何をやっていたかを紹介)
自己紹介の後、ちょっと余裕を見せるつもりで、「皆は 3年生だから20-21歳くらいだよね。とすると1984-5 年生まれだな。」と知ったかぶりに言ったら、失笑が起きて、「違いますよ、1995年」と声が上がった。ウーム、出だしからさっそく単純ミスを暴露してしまった。
(私は昔からミスがもの凄く多くて、学生の授業評価でも、板書の誤字脱字が多いというのが一番の学生からの指摘事項になっている。これだけはどうしても直らないので、最近は完全に居直っていて、自分は書き間違いが多いから、疑いつつ見てくださいと図々しく宣言している。何とも頼りない限りの先生だが、他人を信用するなというのもひとつの社会勉強にはなるかもしれない。)
(1)まず最初の「見るということは?」では、その効果が歴史的に印象的である1987年の北朝鮮のテロによる大韓航空機爆破事件の経緯を紹介する。犯人逮捕に至るまでの息詰まるストーリを話した後、“ところで、ここでクイズを出します”と言って、“逮捕された金賢姫をたった一日で全面自供させた韓国捜査当局はどのような手段を使ったでしょうか?” と質問をする。
1. 拷問、
2. 説得、
3. 薬、
4. 市内観光、
と黒板に書いて手を挙げさせる。学生もさすが賢くて、正解の4が一番多い。そこで手を挙げさせたまま、“知っていた人は手を降ろしてください”と言う。2,3人いたのには驚いた。次に“クイズだからと裏を読んで一番あり得なさそうものを選んだ人は手を下げてください”と言う。これは予想通りでかなりの手が下がる。残った学生のうち何人かに理由を尋ねる。まあおおよそは正解。ついでに北朝鮮は何でああいう国なのかということと、今の拉致問題の由来も説明する。最初から思いっきりの脱線講義になる。
前置きが長くなってしまったけれどと言いつつ、最後に言いたかったことを披露する。三角柱の例を出して、視点によって見える風景は全く異なることを示す。長年に渡って洗脳され続けてきた北朝鮮の工作員を一瞬で目覚ますほどに“見る”ということのインパクトは大きい。しかしそうして見たものでさえも100%信用出来るとは限らない。(インパクトの大きさゆえ違っていたときの被害も大きい。)まして人の話しをバカ正直に信用して騙されてはいけない。
疑う力を養え。それは自分の意見を持ち自分の感性に従って考えるということでもある。疑うことは決して悪いことではない。自然科学を大きく進歩させてきたのは「常に疑う」という姿勢である。これが、これから社会に出る皆さんへの私からのメッセージです、と強調する。
(2)「三角ゾーン(誰もケアしない空白部分)は誰が埋めるか?」では、黒板に企業のプロジェクトで必ず直面する問題である三角ゾーンの絵を書いて、すぐさまに指名して“空白部は誰が埋めるべきか?”と質問する。すると、“リーダーに報告して作業分担の再見直しをしてもらう”という回答が続く。(一番多数派の回答だろうと予想していたが、見事にそのとおり。これは、ぜひ会社員相手にもやって見たいところである。)
“では次に条件をひとつ追加します。リーダーは海外出張中でいないときはどうしますか? ”と尋ねる。すると、“関係者が相談して穴埋めをする。”と一歩前進した答えが出てくる。なるほど。そのときに多分その中で最もゆとりのあるCさんが穴埋めをボランティアでやるのですよね。でもCさんは、自分の責任外のことをボランティアでやって損をすることになりますよね。これではCさん納得いかないですよね。どうしたらいいと思いますかと問うと、急に答えがパタリと途絶えて皆困った顔になる。
そこで私からのコメント。Cさんはリーダーに“穴を見つけたので、関係者が集まって相談して一番余裕のある自分が責任範囲ではないが穴を埋めました。”と報告してみるべきですね。自分の首がかかった結果責任を負っているリーダーにとってこれほど嬉しい報告はないのですよね。Cさんのボランティア活動は、その瞬間に最大の出世の切り札にと変貌するわけです。
この話しはあまりしつこく言わずとも、ある程度の知能があれば意味がすぐに分かると思うので、そこでアッサリと切り上げる。ただし、話の途中で出てくる“責任”という言葉はかなり重要なので少し詳細に補足説明をする。
責任には、地位責任と道義的責任の2つがある。地位責任とは契約に基づいたもので報酬があり責任範囲は明確。道義的責任とは、何の定義も無いがその事象に対してかなりの影響力のある場合に発生する。道義的責任は果たそうが果たすまいが、責任も問われず報酬もないのが普通。上記の三角ゾーンの例は、道義的責任を果たした結果が、高く評価され将来の報酬につながる可能性があるというひとつの希望的な例であるが、必ずしも一般化はできない。
道義的責任の扱いは非常に難しい。訳が分からずに皆が悩んでしまう場合も多い。人間、長い人生でどこかでその2つの間での葛藤に遭遇する場合も少なくない。歴史的な実例として、東京裁判において地位責任を厳しく問われ処刑されたA級戦犯と、全く不問だったマスコミの戦争責任(これは道義的責任)の際立った対比をあげる。(この問題は有識者の間では常にくすぶっている。靖国問題もこの点を認識していないと本当のところは理解できない。)
次に6000人のユダヤ人の命を救いイスラエルでは英雄となっている杉原千畝氏の、2つの責任の間で苦悩した姿の例を紹介する。(これも個人的にはとても感動する話なのだが、全員が揃って公けに賞賛ができずどことなくモヤモヤした感じが残るのは、この2つの責任問題の矛盾を抱えているからである。)
この責任問題は、正解の無い永遠の課題(私にとっては)なのだが、意識しているのと、していないのとでは人間の思考形態と行動様式に大きな差異が出るものと私は考えている。
(3)「創造性とは何か?」では、スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学での伝説の名演説を最初に紹介する。“知っている人はいる?”と聞いたら一人しかいないので、ちょっとガッカリする。“ジョブス、スタンフォード”でググると動画が山のように出てくる。英語の勉強にもなるので是非見るようにと、私にしては珍しく力を込めて推奨する。
次にジョブスの名言「Connecting Dots」の意味を説明する。
その後に、創造力とは、頭脳メモリの内の情報量とメモリアクセス能力の積で決まるとの自分の仮説を紹介する。情報量は年令とともに増加するが、アクセス能力は年令とともに劣化する。よってもって創造力には人それぞれ固有の年齢に応じてピーク値というものが訪れる。
アクセス能力は天性の部分も大きいので訓練するのは難しいが、メモリの情報量を増やすのは、努力と心構え次第である。努力でできることは積極的にやったほうがよい。ただし、注意すべきは、類似のデータをいくら積んでも情報量は増えない。情報理論の授業で習ったように相関性のないデータが一番情報量は多い。よってもって、全く関係ないデータを自分のメモリに蓄えることが重要となる。
皆さんが大学で勉強したことは、頭脳メモリの中ではほんのわずかで、しかも類似のデータばかりである。その時にには無駄だと思えることでも、将来どこかで必ず役に立つ。“寝ること以外の活動で得られるデータで役に立たないことは何ひとつない。全てが勉強。" というのが、私からのメッセージです、と言って締めくくる。
この項目に関しては、上から目線の説教調子でちょっと肩に力が入ってしまった。一息ついて、“まあ、人それぞれなんで、どうこういう気はないんだけど、たぶん人生あまり早くピークを迎えてしまわないほうがきっと幸せなんだよね。”と最後にボソっとつぶやいたところで、終了チャイムが鳴った。初仕事としては、かなり上手く出来たと心密かに満足。
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ところで、後で全体を見返して見ると、勉学と研究に励めとは全くどこでも一言も言っていないことに気がついた。(むしろ学校で勉強したことなど役に立たんと言っているようにも聞こえそうだ。) 教務委員の先生方が大学の方針にのっとり大変な苦労をして組んだ授業カリキュラム。その授業時間を好き勝手に使って授業もやらずに楽しんで、しかもそれを公開ブログで得意げに披露しているのが学長と教務委員に見つかったら怒られるかも、と小心者の私としては少し不安になるが、まあいいか。
裏方をやっているうちに、自分でも講演をしてみたいなと思うようになった。たまたま、ある企業から、ご研究内容を若手エンジニアに紹介してくださいという、大変有り難い依頼を受けた。ついでに、雑談をしてもいいですかと聞いたら、ぜひと言われたので、どんなテーマがよいか考えはじめた。
技術以外のテーマを多数の人の前で話をするのは初めての経験である。また、普段の大学の授業でも、自分は人前では控えめな性格のせいか、正面を向いて雑談をすることはあまり無い。そこで、ふと、一度、自分の持ち授業の中で、1時間くらい時間を余らせて、学生を相手にして、「思いっきり雑談」と称して講演の練習をしてみようと思い立った。(実験台にされた学生達には迷惑だったかもしれないが。)
やってみたら、初経験にしては、案外と上手くできたような気がしたので、Facebookで披露したら、特に社会人から好評だった。(肝心の学生からの反応は得てないのでどう受け取られたかはよく分からないのだが。)Facebook ではすぐに流れて消えてしまうので、自分自身のメモのためにも、その内容をブログで残しておこうと思った。以下はほぼFacebookに載せたままの記録です。
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昨日は、担当の授業の最後の科目の最終日。ちょっと前から計画していた、「思いっきり雑談」をここで実験的に行うことをやってみた。1時間ばかり時間を余らせておいて、“これから全く授業とは関連ない話をしますので,すみませんが私の講演の練習にお付き合いください”と宣言して、以下の3つのテーマについて話をした。
1. 見るということとは?
2. 三角ゾーンは誰が埋めるか?
3. 創造性とは何か?
こういう話をアドリブで、しかも学生と対話しながら進めるのは自分にとって初めての経験であった。しかし、やってみると予想外に上手く出来た。学生の顔を一人一人よく見て反応をユックリ確かめながら、適宜クイズを出したり手を挙げさせたりして対話をするというのも、自分自身にとっては初めての体験で、とても楽しかった。時間もちょうど終礼のチャイムピッタリに終了。今まで、もっと早く気がついてやり始めていればよかったなあと思った。
最初は、まず自己紹介から始める。講演をする時は自分の素性をハッキリ説明することが重要だとかねがね感じている。この人は一体どういうバックボーンでこういう話をしているのかということは、聴衆としてはすごく興味が湧くものだ。(私の場合は、30年間東芝で働いていて何をやっていたかを紹介)
自己紹介の後、ちょっと余裕を見せるつもりで、「皆は 3年生だから20-21歳くらいだよね。とすると1984-5 年生まれだな。」と知ったかぶりに言ったら、失笑が起きて、「違いますよ、1995年」と声が上がった。ウーム、出だしからさっそく単純ミスを暴露してしまった。
(私は昔からミスがもの凄く多くて、学生の授業評価でも、板書の誤字脱字が多いというのが一番の学生からの指摘事項になっている。これだけはどうしても直らないので、最近は完全に居直っていて、自分は書き間違いが多いから、疑いつつ見てくださいと図々しく宣言している。何とも頼りない限りの先生だが、他人を信用するなというのもひとつの社会勉強にはなるかもしれない。)
(1)まず最初の「見るということは?」では、その効果が歴史的に印象的である1987年の北朝鮮のテロによる大韓航空機爆破事件の経緯を紹介する。犯人逮捕に至るまでの息詰まるストーリを話した後、“ところで、ここでクイズを出します”と言って、“逮捕された金賢姫をたった一日で全面自供させた韓国捜査当局はどのような手段を使ったでしょうか?” と質問をする。
1. 拷問、
2. 説得、
3. 薬、
4. 市内観光、
と黒板に書いて手を挙げさせる。学生もさすが賢くて、正解の4が一番多い。そこで手を挙げさせたまま、“知っていた人は手を降ろしてください”と言う。2,3人いたのには驚いた。次に“クイズだからと裏を読んで一番あり得なさそうものを選んだ人は手を下げてください”と言う。これは予想通りでかなりの手が下がる。残った学生のうち何人かに理由を尋ねる。まあおおよそは正解。ついでに北朝鮮は何でああいう国なのかということと、今の拉致問題の由来も説明する。最初から思いっきりの脱線講義になる。
前置きが長くなってしまったけれどと言いつつ、最後に言いたかったことを披露する。三角柱の例を出して、視点によって見える風景は全く異なることを示す。長年に渡って洗脳され続けてきた北朝鮮の工作員を一瞬で目覚ますほどに“見る”ということのインパクトは大きい。しかしそうして見たものでさえも100%信用出来るとは限らない。(インパクトの大きさゆえ違っていたときの被害も大きい。)まして人の話しをバカ正直に信用して騙されてはいけない。
疑う力を養え。それは自分の意見を持ち自分の感性に従って考えるということでもある。疑うことは決して悪いことではない。自然科学を大きく進歩させてきたのは「常に疑う」という姿勢である。これが、これから社会に出る皆さんへの私からのメッセージです、と強調する。
(2)「三角ゾーン(誰もケアしない空白部分)は誰が埋めるか?」では、黒板に企業のプロジェクトで必ず直面する問題である三角ゾーンの絵を書いて、すぐさまに指名して“空白部は誰が埋めるべきか?”と質問する。すると、“リーダーに報告して作業分担の再見直しをしてもらう”という回答が続く。(一番多数派の回答だろうと予想していたが、見事にそのとおり。これは、ぜひ会社員相手にもやって見たいところである。)
“では次に条件をひとつ追加します。リーダーは海外出張中でいないときはどうしますか? ”と尋ねる。すると、“関係者が相談して穴埋めをする。”と一歩前進した答えが出てくる。なるほど。そのときに多分その中で最もゆとりのあるCさんが穴埋めをボランティアでやるのですよね。でもCさんは、自分の責任外のことをボランティアでやって損をすることになりますよね。これではCさん納得いかないですよね。どうしたらいいと思いますかと問うと、急に答えがパタリと途絶えて皆困った顔になる。
そこで私からのコメント。Cさんはリーダーに“穴を見つけたので、関係者が集まって相談して一番余裕のある自分が責任範囲ではないが穴を埋めました。”と報告してみるべきですね。自分の首がかかった結果責任を負っているリーダーにとってこれほど嬉しい報告はないのですよね。Cさんのボランティア活動は、その瞬間に最大の出世の切り札にと変貌するわけです。
この話しはあまりしつこく言わずとも、ある程度の知能があれば意味がすぐに分かると思うので、そこでアッサリと切り上げる。ただし、話の途中で出てくる“責任”という言葉はかなり重要なので少し詳細に補足説明をする。
責任には、地位責任と道義的責任の2つがある。地位責任とは契約に基づいたもので報酬があり責任範囲は明確。道義的責任とは、何の定義も無いがその事象に対してかなりの影響力のある場合に発生する。道義的責任は果たそうが果たすまいが、責任も問われず報酬もないのが普通。上記の三角ゾーンの例は、道義的責任を果たした結果が、高く評価され将来の報酬につながる可能性があるというひとつの希望的な例であるが、必ずしも一般化はできない。
道義的責任の扱いは非常に難しい。訳が分からずに皆が悩んでしまう場合も多い。人間、長い人生でどこかでその2つの間での葛藤に遭遇する場合も少なくない。歴史的な実例として、東京裁判において地位責任を厳しく問われ処刑されたA級戦犯と、全く不問だったマスコミの戦争責任(これは道義的責任)の際立った対比をあげる。(この問題は有識者の間では常にくすぶっている。靖国問題もこの点を認識していないと本当のところは理解できない。)
次に6000人のユダヤ人の命を救いイスラエルでは英雄となっている杉原千畝氏の、2つの責任の間で苦悩した姿の例を紹介する。(これも個人的にはとても感動する話なのだが、全員が揃って公けに賞賛ができずどことなくモヤモヤした感じが残るのは、この2つの責任問題の矛盾を抱えているからである。)
この責任問題は、正解の無い永遠の課題(私にとっては)なのだが、意識しているのと、していないのとでは人間の思考形態と行動様式に大きな差異が出るものと私は考えている。
(3)「創造性とは何か?」では、スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学での伝説の名演説を最初に紹介する。“知っている人はいる?”と聞いたら一人しかいないので、ちょっとガッカリする。“ジョブス、スタンフォード”でググると動画が山のように出てくる。英語の勉強にもなるので是非見るようにと、私にしては珍しく力を込めて推奨する。
次にジョブスの名言「Connecting Dots」の意味を説明する。
その後に、創造力とは、頭脳メモリの内の情報量とメモリアクセス能力の積で決まるとの自分の仮説を紹介する。情報量は年令とともに増加するが、アクセス能力は年令とともに劣化する。よってもって創造力には人それぞれ固有の年齢に応じてピーク値というものが訪れる。
アクセス能力は天性の部分も大きいので訓練するのは難しいが、メモリの情報量を増やすのは、努力と心構え次第である。努力でできることは積極的にやったほうがよい。ただし、注意すべきは、類似のデータをいくら積んでも情報量は増えない。情報理論の授業で習ったように相関性のないデータが一番情報量は多い。よってもって、全く関係ないデータを自分のメモリに蓄えることが重要となる。
皆さんが大学で勉強したことは、頭脳メモリの中ではほんのわずかで、しかも類似のデータばかりである。その時にには無駄だと思えることでも、将来どこかで必ず役に立つ。“寝ること以外の活動で得られるデータで役に立たないことは何ひとつない。全てが勉強。" というのが、私からのメッセージです、と言って締めくくる。
この項目に関しては、上から目線の説教調子でちょっと肩に力が入ってしまった。一息ついて、“まあ、人それぞれなんで、どうこういう気はないんだけど、たぶん人生あまり早くピークを迎えてしまわないほうがきっと幸せなんだよね。”と最後にボソっとつぶやいたところで、終了チャイムが鳴った。初仕事としては、かなり上手く出来たと心密かに満足。
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ところで、後で全体を見返して見ると、勉学と研究に励めとは全くどこでも一言も言っていないことに気がついた。(むしろ学校で勉強したことなど役に立たんと言っているようにも聞こえそうだ。) 教務委員の先生方が大学の方針にのっとり大変な苦労をして組んだ授業カリキュラム。その授業時間を好き勝手に使って授業もやらずに楽しんで、しかもそれを公開ブログで得意げに披露しているのが学長と教務委員に見つかったら怒られるかも、と小心者の私としては少し不安になるが、まあいいか。
by sakuraimac
| 2015-02-04 22:24
| 教育・大学
|
Comments(9)
FBver.にオチが加わって(笑)、さらに面白く拝読しました!私も講義中に雑談すると、ある種の罪悪感のようなものを感じます。しかし学生時代に受けた講義でいちばん覚えているのは先生方の雑談だったことを思い出し、開き直っていますよ。
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落合さん、実名コメント、感謝です。私、どうも、授業の合間に、さりげなく雑談するのが苦手なんですよね。なので、今まで上手く出来なかったのです。ところが、自分で枠を作って、正面から学生に向きあったら、予想外にちゃんと出来る。ちょっとした発見でした。俳優がちゃんとした演技ができるのもちゃんとした舞台が必要ということなんでしょうかね。
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
在校生さん、コメントありがとうございます。残念ながら、非公開モードになってますが、学生さんからコメントいただけること、大変嬉しいです。
このブログの内容で、未だ自分自身の中で、明快な解が得れないのが、「道義的責任」です。ブログの内容を見直してみて、ふと気がついたのですが、両者は混在して存在する。人それぞれに、適宜それに対応している。その際、どちらの責任を強く感じるかで大きな個人差が出るということでした。会社で出世する人はもちろん能力の絶対量が大きいのは必要条件なのですが、この地位責任と道義的責任のバランス感覚が非常に優れている、ということに思い当たりました。どちらかに振れすぎるとダメなんですよね。地位責任感覚のみが非常に強い人はある程度までは行くのですが、どこかで挫折します(要するに人に尊敬されないんですよね)。逆に、道義的責任感覚が強過ぎる人は、組織として扱い兼ねて困ってしまうのですよね。思い出してみると、私は地位責任をつい忘れて、道義的責任を果たすことに邁進するタイプでした。こういう人は実は組織にとってある面では大きな利益を生むのですが、その行動を評価の段になって、ハタと会社は困ってしまう。いくら貢献したと言っても、それは会社との契約に基づいた責任を果たした結果ではない。いわゆる、個人の趣味に基づいた勝手な行動なんですよね。それを、会社は公には非常に評価しづらい。評価してしまったら、組織の秩序はくずれて混乱してしまう訳です。そのことは、感覚的にはよく分かっていたのですが、今ひとつ理屈付けが出来ていませんでした。このどちらにも振れない最適なバランスポイントを見つける能力というものは非常に重要なのではないかと思います。たぶん、そのポイントは、地位や組織自身の性格に応じて変化するものだと思います。
ちょっと、自分への防備メモとしてここに記しておきます。
ちょっと、自分への防備メモとしてここに記しておきます。
またの防備追記ですが、中村修二さんは、天才ではあるんですが、このことを全く理解していない。だから、彼の行動や発言は、全く尊敬されず、人々の共感も得られない。参った、付いてはいけないがと言いつつ、皆が尊敬してしまう天才は、周りのことは一切気にしないで、とにかく全力で突き進む。そこにある種の爽やかさがある。中村さんに爽やかさが無いのは、中途半端に周りを気にするからなんですよね。例えば、我が道を邁進して来たのに、海外の研究者にちょっと言われただけで、自分は不当な扱いを受けていると信じ混んでしまう。それ以降ずっと、何か日本の制度がどうのこうのと後付けの理屈付けしているけれど、それは人から言われたことであって、自分の言葉ではない。非常に幼稚に聞こえて全然爽やかではない。本当の天才なら、そんなことはどうでもいい。自分の好きなことさえやれればいいはず。また、裁判だって、自分の信念に基づいたものではなく、成り行きで始めてしまって、あとは弁護士の言うがまま。
蛇足ですが、弁護士って自分のことしか考えてないんですよね。つまり、裁判を利用して自分の名を高めることと、高収入を得ることの2点。まあ、そうではない正義感と良心を持った方もおられますが、それは少数派。基本的には弁護士のこの職業的な性質はよく理解しておく必要があります。特に自分の報酬は勝ち取った賠償額に比例するから、弁護士に任せると、どんどん値が上がって行く。日本では、それがあまり目立ちませんが、これが露骨に顕著なのは米国ですよね。東芝はかつてフロッピーディスクのつまらぬミスで、悪徳弁護士集団の餌食になって、集団訴訟に持ち込まれて、実際に被害はないのに、実に2000億円の賠償金を支払うハメになった。2000億円ですよ。普通の会社ならつぶれますよね。
だから、弁護士を使うときは、あくまで自分でコントロールしなければならない。でないと、非常におかしなことになる。これの典型的な例が、理研ですよね。調査委員会の委員長が逃げ出して(実に上手く逃げました。)、代わりに弁護士が委員長になったのを見て、これは、理研はもうアカンと思いました。弁護士の言うなりになっては、絶対に、社会から尊敬されるような行動や言動は出てこないですよね。(なお、小保方さんの弁護士になった三木さんは、例外的に良心的で、人権を第一に考えて、バランス感覚のある尊敬できる弁護士さんだと思います。)
だから、弁護士を使うときは、あくまで自分でコントロールしなければならない。でないと、非常におかしなことになる。これの典型的な例が、理研ですよね。調査委員会の委員長が逃げ出して(実に上手く逃げました。)、代わりに弁護士が委員長になったのを見て、これは、理研はもうアカンと思いました。弁護士の言うなりになっては、絶対に、社会から尊敬されるような行動や言動は出てこないですよね。(なお、小保方さんの弁護士になった三木さんは、例外的に良心的で、人権を第一に考えて、バランス感覚のある尊敬できる弁護士さんだと思います。)
話しを戻して、中村さんが尊敬されないのも、この弁護士の口車に安易に乗ってしまっているからなんですよね。ノーベル賞を貰ったときが、その悪印象を吹き消す絶好のチャンスだったのだけれど、気が付いていないから、米国でのインタビューで、今まで通りの安易な日本批判を行なって、さすがに、米国人からも、あれおかしいな?、という事になって、日本人留学生は、皆すごく恥ずかしい思いをした訳なんですよね。さすがに、安倍総理から、「日本の誇り、地方企業からノーベル賞が出るとは、地方活性化の鏡になる。」なんてなことを言われて、少しは、気がついたようなとこもあるけれど、まだ本当には理解してないように見える。
中村さんは個人的には気さくないい人だと会った人は言う。まあ、そうでしょう。世の中に、ある程度の知的レベルにあって、本当に悪い人なんてそうはいない。問題は、人間性では、なくて、認識能力なんですよね。それが欠けていることが、尊敬を得られない最大の原因になっている。
あれ、この欄で言いたかったことは結局何だっけ?まあ、防備メモだからいいか。
中村さんは個人的には気さくないい人だと会った人は言う。まあ、そうでしょう。世の中に、ある程度の知的レベルにあって、本当に悪い人なんてそうはいない。問題は、人間性では、なくて、認識能力なんですよね。それが欠けていることが、尊敬を得られない最大の原因になっている。
あれ、この欄で言いたかったことは結局何だっけ?まあ、防備メモだからいいか。
アッ、上で、間違いがあったので訂正します。東芝は、フロッピー事件で、払った和解金は、1,100億円。あまり、変わりは無いけれど、数字を間違えると、とたんに文書の信頼性が落ちるので、改めて訂正です。ちなみに、そのうち、1割が弁護士のふところに入ったとして、110億円の濡れ手に泡。残りは群がった人で山分け。これって、暴力団の恐喝と変わらないですよね。さすがに、米国内でも、やり過ぎだととの批判が出ていたような記憶があります。

